断腸亭日乗を読む(2)

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▲浅草オペラ館の楽屋で踊り子に囲まれる

荷風は浅草の侘びて貧しげな雰囲気を好んだ

前回(6/2)、昭和3年まで読み、残り荷風が亡くなる昭和34年まで(30年分)を、今月(6月)いっぱいかけて読むつもりでしたが、早くも読み終えました

この期間は、昭和大恐慌から戦争、そして戦後の混乱という大事件が続き、まるで大河ドラマを観るようでした

荷風は頭痛腹痛など病気がちで医者通いが続き、昭和9年、医者からホルモン注射(ビタミン注射のようなもの?)を勧められてこれを受け始め、にわかに元気を回復します

日乗を読んでいると、独身の荷風の食生活は、ほとんど毎日外食

好き嫌いが激しい荷風ですから、栄養が相当に偏っていたのだろうと思われます

医者からも野菜をもっと食べるように言われるのですが、そんなアドバイスくらいで好き嫌いが直る訳もなく、そこに受けたホルモン注射ですから、即座に効いたのかもしれません

▲当時の浅草 手前左がオペラ館 クリックで拡大

元気になると、以前からの銀座浅草通いが再び頻繁になり、さらに荷風の作品を上演していた浅草オペラ館の楽屋に入り浸るようになります

荷風はオペラ館の館主から多少迷惑がられても、メゲずに毎日のように楽屋に現れます

ただのおっさんではなく、一応は芝居(オペラ)の台本の原作者ですから、さすがに館主も面と向かって「帰れ」とは言いにくい

芝居を原作した作家先生が毎日のようにやって来て、芝居がハネた後は食事をごちそうしてくれる訳ですから、踊り子たちには大モテ

若い女の子がダイスキな荷風は、ここを「天国のようだ!」と言っています

踊り子たちに囲まれてウレシそうにしている荷風の写真、それが有名作家のゴシップネタとして新聞や雑誌にたびたび載ったので、世間に「荷風=変人」という評判が染み渡ります

さらにこのころ散歩で下町の私娼窟「玉の井」(たまのい、下の地図の右上)を偶然に訪れ、そこの娼家の侘びた雰囲気にホレ込み、ここにも毎日のように通い始めます

このときの玉の井での経験が、荷風の代表小説「墨東奇譚」(ぼくとうきだん)になります

その後「墨東奇譚」は2回映画化され、私はその2回目の映画で永井荷風という作家の存在を知り、のめりこむきっかけになりました

荷風はこのころを、「わが最も幸福な時期」としています

▲私娼窟「玉の井」

映画「墨東奇譚」 右上は主演女優の墨田ユキ

やがて世界大恐慌と戦争の暗い影が、荷風だけでなく日本人全体の生活を追い詰めていきます

米軍の空襲(無差別爆撃)による直接的かつ物理的な破壊は昭和18~20年ですが、その前10年間くらい、日本の軍部独裁政権が国民生活の隅々まで統制圧迫の網をかけます

荷風はそれに憤り、米軍よりも日本軍人政府による被害の方が大きいと日記に記します

実際この期間の統制圧迫は、まさに重箱の隅をつつくように国民生活の細々した日常生活に及び、真綿で首を絞められるように国民は疲弊窮迫していきます

▲当時の「ゼイタクは敵だ」などの看板

日本人お得意の集団主義の悪い面が出て、「国家総動員」「ゼイタクは敵だ」などの勇ましいかけ声と共に、個人生活の自由や幸福を破壊することそのものが隠れた目的になっていきます

この期間、日ごろ成功者や幸福そうな人への嫉妬心を心に秘めていた連中が、ここぞとばかりに「正義の人」となって、政府のお墨付きをいいことに、弱い者イジメで憂さ晴らしをしていたようです

荷風も日記の中で、「日本人は世界で最も嫉妬心の強い民族だ」と糾弾しています

個人生活の重箱の隅をつつくような統制圧迫の実態は、余りにも細かすぎてここに要約など出来ず、ご興味があれば直接「断腸亭日乗」をお読みいただくしかないと思います

この期間の「断腸亭日乗」における日常生活困窮の詳細な描写は、近現代史の研究者からも貴重な史料として高く評価されています

やがて浅草オペラ館は取り壊しになり、私娼窟「玉の井」一帯は空襲で焼け野原になり、荷風の「わが最も幸福な時期」は終焉を迎えます

荷風の自宅「偏奇館」も、昭和20年3月の東京大空襲で炎上焼失し、荷風は自宅と蔵書を失います

荷風は知人宅などを転々とし、その先々も含めて合計3回も空襲に遭いますが、奇跡的に3回とも生き長らえます

戦後も知人宅への間借り生活が続くのですが、昭和27年に文化勲章を受章し、芸術院会員にも列せられます

それでも亡くなる直前まで浅草通いをやめなかった荷風

高齢になった荷風の日記は、「×月×日、晴、正午浅草」のような非常に簡素な記述が続き、最後の日記「四月二十九日。祭日。陰。」の翌日に満79歳で没しました

* * * * * * *

なぜ荷風は、その蔵書を疎開(田舎へ避難)させなかったのか?

この理由を知りたくて、今回かなり強い関心をもって日記を読んだのですが、明確な説明はありませんでした

周囲の作家たちが次々にその蔵書を疎開させていることは、荷風の日記からもうかがわれますから、空襲で自宅「偏奇館」が焼ける危険性は荷風も十分に認識していたはずです

ただ、偏奇館が炎上焼失したあと、無一物になってセイセイしたようなことも日記に書いていますから、単なる強がりではなく、本当にわざと疎開させなかった可能性も完全には否定できません

変人と言われた人ですから、その深層心理の底にどのような思惑がうごめいていたかは、余人には知りがたいところです

書斎と蔵書を失った後の荷風は、執筆活動が停滞します

高齢で執筆がメンドウになったのか、書斎と蔵書を失って創作意欲が低下したのか、あるいは終戦前後の社会混乱で出版社の活動が停滞したせいか?

それでも断腸亭日乗だけは、毎日欠かさず書き続けます

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