歩くの大好き

品川駅前にトヨタ本社

▲建設中のトヨタ東京本社(完成予定2029年)

朝散歩で品川駅周辺をよく歩くのですが、広大な敷地(上図の緑色エリア)で大規模な工事が続いています

工事現場を右に見ながら石榴坂(ざくろざか)を上り、高プリの角を左に曲がると、御殿山の高級住宅街になり、なかなか良いお散歩コースです

この工事現場にあった京急のホテル品川グース(旧ホテル・パシフィック)がすでに解体撤去されて、この跡地にトヨタ本社が移転して来るそうです

この場所は、背後の高輪プリンスホテルも含めて、薩摩藩の江戸藩邸(高輪屋敷)があったところです

今から156年前の幕末、慶応 3年( 1868年)には、薩摩藩の江戸藩邸(三田屋敷)襲撃事件があり、この周辺でも「品川戦争」と呼ばれるようなドンパチがありました

▲薩摩藩の江戸藩邸(三田屋敷)襲撃事件

このとき襲撃した幕府軍の主力は庄内藩(現在の山形県鶴岡市)の武士たちで、襲撃された薩摩藩の武士たち(多くは臨時雇いの浪人たち)の一部は三田から品川方面へ逃げ、品川沖(現在の品川駅は、当時海岸だった)に停泊していた薩摩藩の軍艦に乗って関西方面へ向かいました

このあとの戊辰戦争でも薩摩藩と庄内藩は激しく戦ったのですが、賊軍として負けて降伏した庄内藩士を西郷隆盛が丁重に扱ったので庄内藩では西郷に深く感謝し、10年後の西南戦争では多くの旧庄内藩士が西郷軍に応援参加しています

鹿児島には西郷隆盛のお墓がありますが、その周囲には西南戦争で亡くなった旧薩摩藩士などと共に旧庄内藩士のお墓がたくさんあります

鹿児島県と山形県の不思議なつながりです

(^_^;)

詳細(トヨタ発表) 詳細(京急発表)

▲ホテル品川グース(旧ホテル・パシフィック)

▲上から見た工事現場の現状

手前のオレンジ屋根のレストランは

もう営業してないけど、建物はまだ残っていて

工事現場の事務所として使っているみたい

朝の散歩と薩摩藩邸焼き討ち事件

私はいま品川駅の近くに住んでいて、このごろ自宅周辺の朝散歩が習慣化しつつある(犬は飼っていない)

山手線の内側(高輪、芝など)を歩くと、幕末の史跡が多いことに気付く

この辺にはかつて薩摩藩の江戸屋敷がいくつもあって、薩摩藩は倒幕派の最大勢力だったから、ここはまさに幕末騒乱の最前線だった

そんなある日、上のようなパンフレットを見つけ、応募したら当選して、昨夜お話を聴いてきました

講師は歴史好きが高じて、サラリーマンを定年退職後に大学教授になった人

世の中には歴史オタクみたいな人がいて、下手な学者より知識も豊富で、自分の著書も出したりしている

講演会の会場は、田町駅の近くにある伝統文化交流館という区の施設

 

▲周辺はオフィスビルや高層マンション街で、ここだけ異様な空間

ここはかつて芝浦花柳界の見番(けんばん)として建設された、都内に現存する最古級の木造見番建造物

見番とは、置屋、料亭、待合からなる「三業」を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設で「協業会館」と呼ばれていた

東京にはかつて高級料亭が並ぶ花街があちこちにあって、その代表が東京六花街と呼ばれた

柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、芳町(現在の人形町)

芝浦にも、それらに次ぐ花街があったようです

館内には舞台のある大広間があって、そこが講演会の会場

ここの最盛期は昭和10年代で、当時この大広間で多くの宴会が開かれ、たくさんの芸者さんたちが舞台の上で踊りを披露したり活躍していたはず

この建物(伝統文化交流館)は、第二次大戦の空襲でも焼けず、バブル時代の地上げでも取り壊されず、奇跡的に生き残った木造建築で、最近になって歴史的価値を感じた区が改修して展示施設にしました

講演会は定員50人で募集していて、100人以上が応募して、たまたま私は当たった

かつての見番の大広間に、歴史好きが50人ほど集まった訳です

さすがに平均年齢は高かったですが、意外に女性が多く(3割くらい)、私が思っていたよりも歴史ファンに女性は多いんだなと感じました

ここは女性(芸者さん)の職場だったから、近代女性史の研究家とかが来ていたのかもしれませんし、講師が自分の知り合いを呼んだ可能性もありますけどね

 

▲幕末の三田・田町付近(上が北になるように回転させた)

明治になって海に土台(築堤)を築いて鉄道線路を作ったが

駅(田町駅)だけは、薩摩藩の蔵屋敷跡の上に作ったんですね

蔵屋敷の凹みは船着き場かな?

▼現在の三田・田町付近、主な道路は昔のままですね

 

この日のテーマ「薩摩藩邸焼き討ち事件」というのは、幕末の慶応3年12月25日(旧暦)に三田の薩摩藩邸(三田屋敷)で起きた事件で、場所は現在のNEC本社あたり

まさにそこから歩いて10分くらいの場所で、昨夜の講演会があった訳です

薩摩藩は超巨大な藩だったので、これ以外にも広大な高輪屋敷、白金と渋谷に下屋敷、さらに芝浦の海岸に蔵屋敷など、江戸市中にいくつもの藩邸(大名屋敷)を持っていた

高輪屋敷の跡が現在の高輪プリンスホテルで、蔵屋敷跡は現在の田町駅

この蔵屋敷で勝海舟と西郷隆盛が江戸無血開城の談判をしており、現在の田町駅にはそのレリーフが飾られている

当時の日本にはクリスマスを祝う習慣はまだ無かったから、12月25日は単なる年末

焼き討ち事件の当日(旧暦12/25)は新暦1月19日に当たり、この年の秋に改元されて明治元年になっている

だから、まさに明治になる直前(数か月前)に勃発した事件

「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、出来たばかりの明治新政府と260年続いた旧徳川幕府側勢力が戦った戦争(戊辰戦争)のきっかけになった事件とされています

講師の町田さんという人は、

これを「事件」と呼ぶのはケシカラン!

戦争」と呼ぶべき大事件なんだ!

と力説しており、将来の中学校や高校の歴史の教科書には「薩摩藩邸焼き討ち事件」ではなく「三田品川戦争」と記載されるべきだと主張していました

一般に専門家は、自分の専門領域が世間から過小評価されていると思いがちなので、その気持ちは分かる

まあこれは「戦争」という言葉の定義次第なので、事件でも戦争でも私にはどうでもよかったんですが、単なる小競り合いと呼ぶには少々規模の大きな争乱で、時間はわずか1日ですが何十人も戦死しているのは事実だったようです

三田屋敷にこもって江戸市中で乱暴狼藉をしている浪士(徳川方から見たらテロリスト)約200人を引き渡せという交渉が朝7時から3時間も続いたが決裂

戦闘は交渉決裂直後の朝10時ころから始まって午後4時に終わり、三田屋敷は翌朝まで燃え続けた

一番上の講演会チラシにある錦絵が、そのときの三田屋敷の門前を描いており、すでに炎と煙が出ている

このとき薩摩方の交渉役だった三田屋敷の責任者は、交渉決裂直後に槍で突き刺されて即死しています

三田屋敷を取り囲んでいた旧幕府軍(主力は庄内藩)は約1000人で戦闘準備を整えており、包囲する側とされる側には圧倒的な戦力差があった

薩摩藩邸にこもっていた浪士(徳川方から見たらテロリスト)の多くが殺されたり捕まったりしたが、一部の残党が品川方面に逃げ出した

「窮鼠猫をかむ」にならないよう、包囲する側が包囲の一部をゆるめていたので、そこから逃げた

品川沖に薩摩藩の船が停泊していたので、それに乗って上方(関西)方面へ逃げようという考えで、品川へ向かった

当時、江戸から上方まで歩いて15日だが、船なら風に乗れば2日で、鉄道も自動車も無い時代に最も速い移動手段は船だった

この逃げる薩摩船の近くに幕府の軍艦がいて、品川沖で大砲を撃ち合いながら海戦をしており、講師の町田さんは「事件ではなく戦争」の根拠の一つとしています

薩摩船は激しく被弾して残党は「もうこれまで」と覚悟したが、何とか沈没を免れ、品川沖から脱出しました

三田から品川まで逃げるときに

追っ手を防ぐため、途中の民家に放火しながら逃げた

ので、三田から品川にかけて民家の多くが燃えて焼け野原のようになったそうです(これも「事件ではなく戦争」の根拠の一つ)

官軍と彰義隊が上野の山で戦った有名な「上野戦争」は、同じく1日(朝7時~午後5時)で戦死者300人ですから、これを戦争と呼ぶなら薩摩藩邸焼き討ち事件を「三田品川戦争」と呼んでもいいような気もします

ちなみに戊辰戦争全体では、8000人以上が戦死しています

さらに明治10年の西南戦争では、13000人以上が戦死

この幕末明治期の2つの内戦で、2万人以上が亡くなっている

同時期に起きた米国の内戦(南北戦争)では数十万人が戦死していますから、

戊辰戦争や西南戦争は、内戦として国際比較すると、かなり戦死者数が少ない

ことになります(むしろ米国の南北戦争が多すぎると言うべきか)

これはおそらく産業革命の浸透度の違いで、南北戦争当時の米国では産業革命による近代兵器が戦場に十分に行き渡っていたのに対して、同時期の日本の戊辰戦争や西南戦争には近代兵器がそれよりはるかに少なかった

日本刀で戦っている人も多かったが、日本刀は実用性が低くて戦国時代ですら余り使われず、戦国武器の主力は槍(やり)、弓矢、鉄砲、投石だったから、260年の天下太平による平和ボケかもしれない

すでに日本刀は骨董品や工芸作品(芸術品)として床の間の飾りになっていたが、それを引っ張り出して戦争をしていた

産業革命による科学技術の進歩で、近代兵器の人間に対する殺傷能力が飛躍的に高まった

それ対して、人間の肉体の持つ根源的な生命維持能力はほとんど何も変わらない訳だから、人間は近代兵器で簡単に殺されてしまう(現在のウクライナやガザと同じ)

その後の世界大戦では、米国南北戦争の100倍、数千万人が死んでいます

次の世界大戦(それは今年中かもしれない)で全面核戦争になれば、数億人~数十億人が死に、人類は絶滅に瀕します

最後の将軍となった徳川慶喜は、焼き討ち事件が起きる直前(約2か月前)に大政奉還をしました

そして天皇を中心とする新国家を作り、それを運営する合議体(新政府の最高意思決定機関)の主要メンバーに徳川慶喜も加わる気運が高まっていました

これが徳川慶喜の狙いで、「大政」という名を捨てて「合議体のリーダーシップ」という実(実権)をとる戦略

幕末時点でも、徳川家の領地は全国の約3割あったから、十分にリーダーシップがとれると踏んでいた

それが、この事件がきっかけで戊辰戦争が起き、旧徳川方は天皇に刃向かう「賊軍」となって転落し、明治新政府の主要メンバーから旧徳川勢力はほぼ一掃された訳です

これはまさに、薩摩の大久保利通や西郷隆盛の狙っていた路線

薩摩藩邸焼き討ち事件の発生を知った西郷が思わずほくそ笑んだとか、すべてを背後で仕組んだのが西郷だとする説が定説のように流布していますが、これはやや怪しい

そもそもこの後に続く戊辰戦争で官軍(薩長方は勝ったから官軍になった)が勝つ保証は何もなく、当時の軍事力では旧徳川方が圧倒的に優勢だった

大久保や西郷も、この時点で徳川方に武力で勝てるとは思っていなかった

もし旧徳川方が勝っていれば、薩摩や長州が賊軍になっていた

そうなれば、新政府で最大の影響力を持つのは徳川慶喜だったでしょうから、明治以降の日本現代史はかなり様相が違っていたはず

もし「すべてを背後で仕組んだ者」がいたとしたら、それは薩摩藩の西郷ではなく、土佐藩の板垣退助だったと思われます

板垣退助は明治になって自由民権運動を推進し、

「板垣死すとも自由は死せず」

の名言でも有名ですから、何となく平和主義者のようなイメージがありますが、幕末の板垣退助はテロリストと言っても過言ではない超過激派だった

まあ人間というのは、若いころは超過激派でも、歳をとると丸くなるというのはよくあること(板垣が丸くなったかどうか知らんけど)

つい先日、永年全国指名手配されていた元テロリストが半世紀ぶりに逮捕されましたね

しょぼくれた詰まらないジジイになっていて拍子抜けしました

ちなみに板垣退助のお墓は品川駅の近くにあり、先日の朝散歩で偶然に見つけました

徳川慶喜はおフランスびいきの洗練されたお坊ちゃま都会人だったから、

薩長新政府の田舎臭さとドイツびいき

とは違った雰囲気の新政府になっていたと思います

おフランス風の都会的でオシャレな新政府

になったかどうかは知りませんけど、欧州戦争での

おフランス軍の救いようのない弱さ

を考えると、徳川方が負けて良かったのかもしれません

明治になって帝国陸軍が編成されましたが、東京とか関西など都会出身者で編成した軍隊(聯隊)は士気が低く弱いことで有名で、強いのは九州とか東北だった

便利な生活に慣れた都会人は、戦争には向いてないんですね

戊辰戦争でも主力となって戦ったのは、官軍が九州勢、旧幕府軍が東北勢でした

今や全国的に便利な都会生活に慣れた現代日本人は大丈夫かな?

兵器の性能と品質(信頼性)、それに兵器操作能力が重要な現代戦では、士気の重要性は低下しているそうですから、それに期待したいと思っています

徳川慶喜は非常に頭の良い男だったようで、政治の駆け引きや外交交渉は上手にこなすんですけど、とにかく戦争は下手だった!

戦争が下手なら、戦争が上手な部下に任せればいいんですけど、頭がいい人というのは他人任せにできず、何でも自分がやろうとしがち

個人としては優秀だけど権限委譲の出来ない上司(つまり管理者としては問題あり)という人は、今でもよくいますよね

とにかく、戦争というのは頭の良さだけではダメで、勇気(度胸)が必要みたいです

ボンボン育ちの慶喜にはそれが欠けていて、大久保利通や西郷隆盛にはそれがあった!

徳川慶喜は、明治以降は賊軍としての汚名を着せられ、ひっそりと社会の片隅で趣味の世界に生き、大正2年(1913年)に76歳で亡くなっています

大久保や西郷は、その後の暗殺や戦死で40歳代で亡くなっており、それよりずっと長生きしました

徳川慶喜はケタ外れの趣味人で、銃猟・鷹狩り・囲碁・将棋・投網・鵜飼 ・謡(うたい)・能・小鼓・カメラ・洋画 ・刺繍・ウナギ釣り・湯治 ・花見・釣り・書道・弓・ビリヤードなどに親しんだ

さらに子づくりにも励んで、21人の子どもをつくり、宗家分家が栄えている

徳川宗家の現当主、徳川家広氏は19代目(慶喜は15代目将軍)

広い家にお住まいなのかしら?

(2LDKとかにお住まいなら超ウケるんですけど)

評論家や翻訳家をしていて、そこそこ有名人

昨年秋の藩校サミットにも登場してました

この人、何となく徳川家康の肖像画に似てます

初代と19代目だからかなり離れてますが、血はつながってるので不思議ではない(途中の15代目の慶喜には似てないけど)

法事が年に20〜30回もあるそうで、名家の跡取りというのも大変のようです

徳川家康の法事とか、いまでもやってるのかな?

(^_^;)

 

▲徳川家康

 

▲田町駅の近くにある伝統文化交流館

2階の大広間に明かりが灯っていて、そこが講演会の会場

昔はここで、芸者をあげてどんちゃん騒ぎ?

 

城南五山を歩く

 

最近、朝の散歩にハマっている

健康のためというのもあるが、むしろ歩くのが楽しいからやめられなくなった、という感じ

まさに「歩くの大好き」

毎日ではなく、気が向いた日だけ、週に2~3回くらい

いまはまだ寒いが、東京の寒さなんて、ちゃんと防寒すればタカが知れている

短い日で30分くらい、長い日は4時間くらいで、2時間くらいの日が多い

4時間なら16キロくらい歩ける訳だが、帰りもあるので、

家(品川駅の近く)から半径10キロくらい

が私の朝の散歩エリアになっている(実際は5キロくらいが多いけど)

 


▲品川駅から半径10キロ圏内

 

どんどん遠くまで歩いて、帰りは電車やバスで戻る日もある

福沢諭吉は晩年、塾生を連れて毎朝散歩をしていたのだが、それが三田から目黒駅あたりまでで、私の散歩エリアとかなり重なる

何だかちょっぴりウレシイ気分 (^_^;)

山手線の内側には、高プリ(高輪プリンスホテル)やマリオットホテルの日本庭園があるので、自分の家の庭だと思って勝手に散策している

山手線の海側なら、北は芝浦や浜松町、南は天王洲アイル、大井埠頭など

羽田空港の近くまで行って、離着陸する飛行機を眺めたり

レインボーブリッジを歩いて渡って、お台場まで行ったこともあります

 

 

最近気付いたのだが、この山手線内側の高台は、城南五山と呼ばれている

御殿山、八ツ山、島津山、池田山、花房山

JR山手線で品川から目黒まで乗ると、右側にこの五山が並んでいる

山と言っても都内だから高さは知れているが、確かに周囲より高台になっていて、まさに「山の手」だ

どれも現在の住居表示の地名とは異なるので、知る人ぞ知るという感じだが、例えば「八ツ山橋」「御殿山トラストコート」「花房山通り」などのように、橋やマンション、通りの名前で残っていたりする

ちなみに城南というのは、皇居(江戸城)の南側のエリアという意味

都民には常識だが、東京にはおおざっぱに言って、左(西)に山の手、右(東)に下町がある

その山の手もJR中央線あたりを境に上下(南北)で街並みや様相が微妙に異なり、その南側が城南

高台というのはたいてい高級住宅街になっているものだが、この城南五山、まさに豪邸や高級マンションが整然と並んでいて、散歩するには割と快適なエリア

御殿山と八ツ山の間には、三菱財閥岩崎家の高輪別邸だった関東閣もある

上野にある岩崎家旧本邸は、今では誰でもいつでも見学できるが、この関東閣は三菱グループの迎賓館のような使われ方をしているようで、関係者以外は入れない

城南五山筆頭の御殿山は、江戸時代に将軍が鷹狩りなどしたときに立ち寄る休憩所(品川御殿)があったのでこの地名になったという説がある

特に三代将軍、徳川家光は御殿山がダイスキだったようで、18年間に200回以上、つまりほぼ毎月訪れている

明治以降の埋め立てで今は海から遠くなっているが、江戸時代までの御殿山は東京湾に突き出た高台で、遠く房総半島まで眺められた風光明媚な場所

桜の名所だったので、春には江戸市民が大挙して花見に来た

かつては太田道灌が江戸城を築城するまで住んでいた御殿(御殿山城)があったので、こっちが御殿山の語源かもしれない

いずれにしても、太田道灌、徳川家光、岩崎弥太郎と、時の権力者や大富豪のお気に入りだった場所で、今もお金持ちが住んでいる

(^_^;)

 

慶応義塾キャンパスを歩く

慶応義塾図書館(旧)

 

私は慶応義塾出身ではありませんが、福沢諭吉に興味を持っています

きっかけは、大学時代の江藤淳先生の授業「福翁自伝を読む」

福翁自伝は日本人が書いた自伝の中でも傑出した作品で、非常に面白い!

もう何度も読んで、生きる勇気をもらってます

その自伝の内容に沿った展示が、慶応義塾三田キャンパス内の図書館にあります

詳細はここをクリック