歴史

9.11記念日

9.11(アメリカ同時多発テロ事件)って、2001年(23年前)だったんですね

なんかつい最近のことのように思うのは私の年のせいで、いま30歳以下の人たちには、生の記憶が無い歴史上の事件かもしれません

21世紀になってすぐに起きた衝撃的な事件で、

20世紀は国家対国家の争いの時代

21世紀は国家対テロリストの争いの時代

という意味で、予言的な事件だったような気がします

その後9.11に匹敵する大規模なテロ事件が起きていないのが幸いです

この10年後の2011年には東日本大震災があり、日本人にとってこの2つの事件は、21世紀を10年ごとに区切る大事件でした

さらに10年後の2021年は、コロナ騒動ですかね

コロナ感染の始まりはもっと早いんですけど、マスク着用とかワクチン接種とか、大騒ぎになったのはこのころからです

これを中国共産党による生物兵器テロとする説も有力で、そうだとしたら、9.11などとはケタが3つくらい違う大規模なテロ事件と言えそうです

あとは2022年の安倍ちゃん(安倍晋三首相)暗殺事件

この事件で首相が替わり、日本政治の迷走が始まったような気がします

安倍ちゃんに抑えられていた財務省の増税派が息を吹き返し、大増税が始まりました

日本の大手反日マスコミ(朝日毎日NHKなど)が徹底的に安倍ちゃんを嫌って反安倍キャンペーンを張っておりますので、それに洗脳されちゃってる人は、この迷走の実態に気づいていないのかもしれません

この暗殺事件との関係で統一協会が問題になり、洗脳の恐ろしさも話題になりましたが、日本の大手反日マスコミが現在も日々実行している洗脳キャンペーンに比べれば、統一教会の洗脳の影響力なんてタカが知れてるように思います

毎朝、配達された紙の新聞を読み、夕方のテレビを見ながら夕食をとっている人たちの多くは、この悪質な洗脳キャンペーンの哀れな犠牲者です

若い人たちはネットリテラシーが高いので、日本の大手反日マスコミの洗脳キャンペーンにダマされるような愚かな人は少ないのですが、判断力の鈍った後期高齢者の多くが洗脳キャンペーンの犠牲者になっています

今こうしてブログを書いていて、このブログを1か月も更新していなかったことに気づきました

私は何か別のことに夢中になっていると、ブログの更新が疎かになります

今、何に夢中になっているかというと、AIです

(^_^;)~♪

 

読書「コンテナ物語」 世界を変えた「ただの箱」

 

あのビルゲイツが激賞したというので読んでみたが、期待通りの面白さだった

本書によると、世界のコンテナ輸送は、1956年に始まるというから、すでに68年の歴史を刻んでいる

それまでの物の輸送(物流は、細かく梱包された品々をバラバラに、輸送船の船室(船内倉庫)、鉄道貨車、トラックの荷台などで運んでいた

これを混載輸送といい、コンテナ輸送が登場するまで、物流はほぼ混載輸送だけで、いろいろな種類の荷物が混ざった状態で輸送されていた(石油や石炭、鉄鉱石などごく一部の原材料は、専用の輸送船や輸送機器で運ばれていた)

港に輸送船が着くと、船と岸壁の間に板(タラップ)が渡され、その上を港湾労働者(沖仲仕が荷物を担いで行き来するという原始的な方法がとられていた

混載輸送の最大の弱点は、荷物の積み替えに手間と時間、つまり多大なコストが発生することだった

例えば日本から米国西海岸へ船で荷物を輸送する場合、太平洋を数千キロも横断する長い長い輸送の入口と出口のわずか2地点、しかも荷物を船と陸の間(せいぜい数百メートル程度)を移動させるだけのコスト(つまり沖仲仕の人件費)が、輸送コスト全体の半分以上を占めていた

沖仲仕の賃金は必ずしも悪くはないのだが、超肉体労働で業務上の事故や怪我の多い危険な仕事だから炭鉱労働者と似ている

しかも日雇い労働なので炭鉱労働者よりも生活は不安定で、繁忙の差が激しいので仕事にアブレる日も多く、そんな日はバクチをしたり酒を飲んだりという世界だから、この点では底辺の建設労働者(いわゆる土方)と似ている

いきおい気性も荒くなり、ケンカが絶えないので、そんな沖仲仕を仕切る存在としてヤクザが登場する

沖仲仕に仕事を割り振り、その賃金からピンハネすることがヤクザのビジネスだった

映画「波止場」は、この辺の実態を、多少デフォルメして描いている

ヤクザと言えば山口組が有名だが、山口組の本拠地が神戸なのは、神戸港の存在と無関係ではない

山口組の創設者で初代組長の山口春吉(やまぐちはるきち、1881年-1938年)は、ヤクザになる前、神戸港で港湾労働者をしていた

そんな世界なので、物流コストが企業経営や経済全体の重荷なのは分かっていても、なかなか手を付けにくい「暗黒大陸」になっていた

▲沖仲仕による荷物の積み卸し

半世紀前までは、どこの港でも見られた風景

▲現在のコンテナによる荷物の積み卸し

多くの沖仲仕が何時間も(何日も)かかった荷物の積み卸しも

熟練したクレーン操作者なら、たぶん1個あたり数分で済む

そんな旧態依然としていた物流の世界に、ひっそりと登場したコンテナ輸送

コンテナ輸送が登場した1956年当時、こんな「ただの箱」が世界を一変させるとは、一人の天才以外には誰も想像(イメージ)していなかった

運輸業界でコンテナの存在が浮上し始めるだけでも20年くらいかかっており、「一人の天才」も悪戦苦闘している

その前後もろもろ半世紀以上にわたる紆余曲折の詳細な解説が本書の大部分で、とにかく非常に面白い

公的規制のぬるま湯に守られた既存業界からの抵抗、仕事が無くなることを恐れた沖仲仕労働組合との交渉など、イノベーション(革新)が社会に普及するのが簡単ではないことが分かる

世の中で何かを変える(イノベーションを起こす)ということは、必然的に抵抗勢力との激しい対決を招く

そんな抵抗勢力が消えると、次は新しい市場における生き残りを賭けた激烈な競争が始まる

競争を生き残った少数の勝者の背後には、エベレスト頂上付近のように、敗者の死体が累々と横たわっている

本書を激賞しているビルゲイツも、パソコンやインターネットという技術革新を世の中に普及させることに一生を費やしてきたので、自分の人生に重なると感じることも多かったのではなかろうか

ビルゲイツの背後にも、敗者の死体が累々と横たわっているのだ

私がいま住んでいる品川駅の海側(港南口方面)も、今でこそタワーマンションや高層オフィスビルが林立しているが、かつては岸壁の近くに倉庫や運送会社が並ぶ港湾労働者の街だった

私は最近引っ越してきたので当時の詳しいことは知らないが、余りガラの良くない、治安の悪い街だったようだ

それが今では、駅周辺にソニー、キャノン、NTTデータ、マイクロソフト日本法人などの大企業の本社が並ぶ、丸の内や大手町のようなオフィス街に変貌しつつある

もうすぐトヨタの本社も来る予定で、現在建設中

品川駅周辺の丸の内化(大手町化)は、これからあと10年以上、リニア品川駅が開業するころまで延々と続きそうだ

▲朝の通勤時間帯に品川駅港南口からオフィスへ向かう人々

実はこの下に港湾労働者が通った狭くて汚い地下道があった

▼今は一般人は通れないが、JRの業務用として残っている

わずか半世紀で街をこのように変貌させた要因の一つが、まさに本書のテーマであるコンテナだ

この何の変哲もないただの箱(コンテナ)が、わずか半世紀で、品川駅の海側を別世界に変貌させた

もちろんこの変化は品川駅の海側だけでなく、世界中の港湾都市を変貌させ、さらにその効果として世界経済の様相を一変させてしまった(その変化は現在も進行中だ)

なぜコンテナが世界経済を激変させたのか?

コンテナが登場するまで、商品コストの大きな部分を、物の移動費用(物流コスト)が占めていた

だから少しでも物流コストを抑えるために、工場は狭いエリアに密集して立地し、工業地帯を形成した

最近は余り使われなくなった言葉だが、京浜工業地帯とか阪神工業地帯というエリアがあった(今も一応あるけど)

それがコンテナの登場によって輸送費が劇的に下がり、工場の立地において物流コストを余り気にする必要がなくなった

そのコストダウンの数字は、正確な推定が困難であると本書でも繰り返し説かれているが、大ざっぱに言って物流コストは数十分の一になった

それに変わってビジネス競争の上で重要になったのが人件費のコストで、安い人件費を求めて多くの工場が先進国から発展途上国へと移動した

世界経済のグローバル化は、コンテナによる物流コストの劇的な低下なしには考えられない

工場の移動は雇用の移動(消滅)を意味するので、国内政治的にも重大なテーマになった

かつて工業地帯という狭いエリアで集約的に行われていた生産活動が世界中に広がることになり、工業地帯という言葉に替わって「サプライチェーン」という言葉が登場した

筆者は分かりやすいたとえとして、バービー人形(リカちゃん人形の米国版)を取り上げる

かつて米国の狭い工場で全て作られていたバービー人形だが、今では胴体は中国、衣服は東南アジア、毛髪は日本で作られている

そして組み立ては、また別の国かもしれない

サプライチェーンは、少しでもコストが安く事業環境が安定している立地を求めて、いま現在も激しく世界を移動し変化し続けている

ごく最近でも、中国に進出した多くの工場が、中国人の人件費上昇や中国政府の政治的不安定さ(法治国家ではないこと)を嫌って、東南アジアなどへ大規模な移動(脱出)をしている

ビジネス上の用件で中国に出張したら、いきなり訳の分からない容疑で逮捕され、何年も刑務所に監禁されるような暗黒独裁共産国で、誰がビジネスを続けようと思うだろうか?

コンテナ輸送が世の中に普及して、意外なメリットというのが、盗難の減少

混載輸送で荷物をバラ積みしていた時代には、輸送中の荷物が抜き取られたりして盗難に遭うのは珍しいことではなかった

特に貴重品や酒類では、馬鹿にならない被害が出ていて、それが輸送コストに上乗せされる

逆に言えば、それが沖仲仕などの役得にもなっていた

コンテナは基本的にほぼ完全密閉して施錠され、輸送途中での開封が少ないので、この盗難被害が激減した(これも当然、物流コストの低下を促進する)

しかし一方で、コンテナ輸送のデメリット(リスク)も生じている

コンテナの中に簡易便所や水食糧の備蓄など設け、違法難民の輸送に使う悪徳エージェントが暗躍している

何かの都合でコンテナの移動が滞り、飲料水の欠乏や内部の異常温度で、中の違法難民が死亡する事件がときどき起きている

コンテナは元々、人間の輸送は想定していない

さらに危険なのが、コンテナに核爆弾を積んだ「核コンテナ」を、密かに敵国の港湾に持ち込む核テロのリスクだ

遠隔操作でいつでも爆発可能な状態にして、敵国政府に無茶な要求を突きつける

そして爆発させれば、高価な核ミサイルなど無くても、敵国に壊滅的な被害を与えることができる

北朝鮮などが必死になっている核ミサイル開発だが、その技術的に最も困難な点は、ミサイルに搭載可能な核弾頭の小型化

コンテナ程度の大きさで良ければ、たいていの核保有国が、今すぐにでも核弾頭を積んだ「核コンテナ」を製造できるのではなかろうか?

そしてそれが、テロリストの手に渡ったら・・・

現在の大型コンテナ船は、一度に数千個のコンテナを運ぶ

その中に紛れ込んだ、たった1個の核コンテナを発見することは至難の業だ

本書を読み終わって、実に大変な労作で、細かいことを微に入り細にわたり突っ込んで説明していることに感動したのだが、それだけに少し読むのに骨が折れた

何しろ、巻末の注釈と参考文献だけで66ページもある(読んでないけど)

物流の専門家向けではなく、あくまでも一般人向けの本なのだが、ときどき物流の専門的な細かい話が出てくるので、ネットで調べながら読んだ

このあと、物流の基礎知識や最新動向をまとめた解説書を読もうかなと思っている

(^_^;)

 

映画「浮雲」を観る

 

昨年の秋に作家の林芙美子に興味を持って、新宿の林芙美子記念館などを訪ねたりしていた頃から、早く観たい映画だと思いつつ、やっと今日いま鑑賞しました

原作はまだ読んでいないので、その評価はできませんが、さすが日本映画を代表する名作だけあって圧倒されました

あの小津安二郎監督が、自分にはとても作れないと評価した映画が、溝口健二監督の「祇園の姉妹」と成瀬巳喜男監督の「浮雲」だそうです

私はフランス映画がダイスキでいろいろ観ていますが、世界の映画界で米国ハリウッド映画とは全く異なる独特な世界観を持った映画群となると、日本映画とフランス映画が双璧ではないかと思っています

フランス側もそう思ってるようで、フランス人の映画監督で、日本映画から強い影響を受けた人は少なくないようです

フランス人は極めてプライドが高く、フランス以外の国をたいてい下に見て馬鹿にしています(だから周辺国からフランス人は、非常に嫌われている)

これほど差別意識(中華思想)の強い国は、世界でも中国とフランスくらいで、他に無いんじゃないかな(フランス人は「ヨーロッパの中国人」と呼ばれている)

そんなフランス人、さすがにイギリスは好きではないが同レベルの先進国として評価していますが、アメリカとかドイツは田舎者扱いで、それ以下の国なんて奴隷か動物みたいな扱いをします

そんなフランス人が、日本文化には一目置いているのは面白いことです

林芙美子原作の映画では、すでに「放浪記」を観ましたが、こちらは大正~昭和初めが舞台で、作者林芙美子のパワフルさが前面に出て、貧しいながらも活力にあふれた作品

対する今日の「浮雲」は、戦前~戦後の混乱期の、男と女の関係をもっと静かにしっとりと描いています

どちらも高峰秀子主演で、パワフルな役も静かな役も、見事に演じています

女優ですから美人なのは当然として、どちらかと言えばカワイイ系の高峰秀子が、単なるカワイコちゃん演技ではなく、実に驚くほど表情の豊かさを見せています

最近1世紀以上の日本映画の歴史の中で、これほど表情豊かな(つまり演技力が高い)女優は、そうそういないように思われます

「浮雲」のストーリー自体は割と単純で、農林省の役人富岡(森雅之)が戦前戦中の仏印(ベトナム)の森林管理事務所に勤務し(たぶんノンキャリ)、そこで働いていたタイピストゆき子(高峰秀子)と恋に堕ちる

そして終戦と共に二人はボロボロになって別々に日本に戻るが、富岡には日本に妻がいて、ゆき子との約束(いずれ妻と別れる)を守らないという、実によくあるパターン

しかも富岡は、目の前に現れる女に、次から次へと目移りしてゆく

そんな優柔不断で生活力に乏しいダメ男の富岡だが、ゆき子は何がいいのか(たぶんカラダの相性がいいんだろうけど)そんな富岡と別れられずに追い求め続けるし、富岡もズルズルと不倫関係を続けます

何やら、「風と共に去りぬ」のスカーレットとダメ男アシュレーの関係を思い出します

この種のダメ男を好きになる女は世の中に多く、男である私から見ると何ともフシギなのですが、たぶんその頼りなさが母性本能を刺激しているのかな?などと思ったりもします(永遠の謎)

「この人は、私がいないとダメな人なの!」などと言い張る女を見ると、男でも時には頼りなさが武器になったりするんだなぁと思います

そして「お前が甘やかすから、ダメなままなんだよ」などと言ってやりたい衝動にもかられます(バカバカしいから、そんな野暮は言わないけど)

ゆき子は生活のために紳士的な米兵の情婦(パンパン)になったりして、この辺の「焼け跡闇市」の情景描写には興味を引かれます

ふつう戦争に負けて占領軍(進駐軍)が入って来ると、虐殺とか強姦が山ほど起きるのが世界史の常識で、現在のウクライナでもそんな悲劇がいっぱい起きていますが、なぜか昭和20年代に日本を占領した米軍兵士は驚くほど紳士的でした

これほど紳士的な占領は、世界史でもほとんど例が無い

戦争に負けて占領されるなら、民度の高い紳士的な文明国に占領されるべきで、民度の低い野蛮な国に占領されると、虐殺や強姦などでトンデモないことになります

もしあのとき、ロシア(ソ連)が日本占領軍に加わっていたらと考えると、ゾッとします

物語の舞台は戦前戦後(たぶん昭和15~25年くらい)で、撮影は昭和20年代後半

私が生まれる前の東京の情景が多数登場しますが、ここがどこなのかほとんど分からないほど、東京の風景は昔も今も激変し続けています

下の写真は千駄ヶ谷駅で、後ろは新宿御苑のはず

位置関係は分かるのですが、こんな木造駅舎は見たこともないです

((((;゚д゚))))

 

▲木造の千駄ヶ谷駅

まだ駅前の高速道路も無い

 

▲千駄ヶ谷駅で待ち合わせた直後の場面だから

富岡とゆき子が歩いているのは新宿御苑

すでに歩道が、ちゃんと整備されてますね

 

▲ゆき子が住んでいる焼け跡バラックのボロボロの家

電気も無くてローソク照明だが、壁に貼ってある段ボール箱!

クリネックス・ティシューって、この頃からあったの?

 

映画「放浪記」を観る

映画「浮雲」を観る

林芙美子記念館を歩く

新宿歴史博物館を歩く(林芙美子展)

林芙美子「放浪記」を読む

林芙美子の恩師 今井先生

 

東京タワーがグッチ色

高級ブランドの「グッチ」が日本上陸60周年だそうです

60年前の1964年というと、日本の高度経済成長が軌道に乗って、日本人の生活水準が飛躍的に上昇し始めたころで、東京オリンピックが開催されました

そんなジャパンマネーを狙って、抜け目なく上陸して来たんでしょうね

日本はその後バブル崩壊しましたが、すでに豊かな最先進国になっていたので、低成長にはなったけれども高い生活水準と民度を維持し続けてきました

いまお隣の中国では、派手にバブルが破裂しています

日本と違って先進国になる前のバブル崩壊ですから、多くの中国人の生活水準はかなり悲惨な状況になりそうですし、もうすでになっているとも言えます

鄧小平が敷いた経済成長路線を、江沢民と胡錦濤は維持しましたが、習近平が徹底的に破壊した感じです

鄧小平(1978年12月22日 – 1989年11月9日)

江沢民(1989年11月9日 – 2002年11月15日)

胡錦濤(2002年11月15日 – 2012年11月15日)

習近平(2012年11月15日 – 現在)

中国人民にしたらアホな大将、敵より怖いでしょうけど、日本など周辺国にとっては、不気味な共産独裁国家のバブル崩壊は歓迎すべきことかもしれません

あとは、アホな大将が人民の不満のガス抜きとして戦争を始めた場合に対する備えを怠らないことです

平和とは、戦争(侵略)に対する備えをした国民だけが享受できる特権です

少しでも油断すれば、ウクライナのようになります

(^_^;)

詳細はここをクリック

品川駅前にトヨタ本社

▲建設中のトヨタ東京本社(完成予定2029年)

朝散歩で品川駅周辺をよく歩くのですが、広大な敷地(上図の緑色エリア)で大規模な工事が続いています

工事現場を右に見ながら石榴坂(ざくろざか)を上り、高プリの角を左に曲がると、御殿山の高級住宅街になり、なかなか良いお散歩コースです

この工事現場にあった京急のホテル品川グース(旧ホテル・パシフィック)がすでに解体撤去されて、この跡地にトヨタ本社が移転して来るそうです

この場所は、背後の高輪プリンスホテルも含めて、薩摩藩の江戸藩邸(高輪屋敷)があったところです

今から156年前の幕末、慶応 3年( 1868年)には、薩摩藩の江戸藩邸(三田屋敷)襲撃事件があり、この周辺でも「品川戦争」と呼ばれるようなドンパチがありました

▲薩摩藩の江戸藩邸(三田屋敷)襲撃事件

このとき襲撃した幕府軍の主力は庄内藩(現在の山形県鶴岡市)の武士たちで、襲撃された薩摩藩の武士たち(多くは臨時雇いの浪人たち)の一部は三田から品川方面へ逃げ、品川沖(現在の品川駅は、当時海岸だった)に停泊していた薩摩藩の軍艦に乗って関西方面へ向かいました

このあとの戊辰戦争でも薩摩藩と庄内藩は激しく戦ったのですが、賊軍として負けて降伏した庄内藩士を西郷隆盛が丁重に扱ったので庄内藩では西郷に深く感謝し、10年後の西南戦争では多くの旧庄内藩士が西郷軍に応援参加しています

鹿児島には西郷隆盛のお墓がありますが、その周囲には西南戦争で亡くなった旧薩摩藩士などと共に旧庄内藩士のお墓がたくさんあります

鹿児島県と山形県の不思議なつながりです

(^_^;)

詳細(トヨタ発表) 詳細(京急発表)

▲ホテル品川グース(旧ホテル・パシフィック)

▲上から見た工事現場の現状

手前のオレンジ屋根のレストランは

もう営業してないけど、建物はまだ残っていて

工事現場の事務所として使っているみたい

古い動画をAIでカラー化 海軍記念日

最近、古い動画をAIでカラー化するのが流行っています

上の動画は、昭和18年5月の海軍記念日に、東京都内をマーチングバンドが行進しています

81年前の動画なので多少画質が悪いとはいえ、最近撮った動画のようなリアリティ

白黒とはまるで違って、その場の雰囲気が伝わってきます

東京駅の周囲に高層ビルが皆無ですが、皇居前や靖国神社は今と余り変わらない

現在の秋葉原駅近くの万世橋駅も映っていますね(動画では「神田」と表示)

ここは駅こそ無くなったけど、駅舎はかなり現存しています

敗戦まで2年3か月ですが、人々の姿形にはまだ余裕が感じられます

金管楽器がキラキラ輝いていて、華やかさもある

このあと映っている人たちの多くが、地獄を見たり、亡くなったりした訳です

((((;゚д゚))))

 

朝の散歩と薩摩藩邸焼き討ち事件

私はいま品川駅の近くに住んでいて、このごろ自宅周辺の朝散歩が習慣化しつつある(犬は飼っていない)

山手線の内側(高輪、芝など)を歩くと、幕末の史跡が多いことに気付く

この辺にはかつて薩摩藩の江戸屋敷がいくつもあって、薩摩藩は倒幕派の最大勢力だったから、ここはまさに幕末騒乱の最前線だった

そんなある日、上のようなパンフレットを見つけ、応募したら当選して、昨夜お話を聴いてきました

講師は歴史好きが高じて、サラリーマンを定年退職後に大学教授になった人

世の中には歴史オタクみたいな人がいて、下手な学者より知識も豊富で、自分の著書も出したりしている

講演会の会場は、田町駅の近くにある伝統文化交流館という区の施設

 

▲周辺はオフィスビルや高層マンション街で、ここだけ異様な空間

ここはかつて芝浦花柳界の見番(けんばん)として建設された、都内に現存する最古級の木造見番建造物

見番とは、置屋、料亭、待合からなる「三業」を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設で「協業会館」と呼ばれていた

東京にはかつて高級料亭が並ぶ花街があちこちにあって、その代表が東京六花街と呼ばれた

柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、芳町(現在の人形町)

芝浦にも、それらに次ぐ花街があったようです

館内には舞台のある大広間があって、そこが講演会の会場

ここの最盛期は昭和10年代で、当時この大広間で多くの宴会が開かれ、たくさんの芸者さんたちが舞台の上で踊りを披露したり活躍していたはず

この建物(伝統文化交流館)は、第二次大戦の空襲でも焼けず、バブル時代の地上げでも取り壊されず、奇跡的に生き残った木造建築で、最近になって歴史的価値を感じた区が改修して展示施設にしました

講演会は定員50人で募集していて、100人以上が応募して、たまたま私は当たった

かつての見番の大広間に、歴史好きが50人ほど集まった訳です

さすがに平均年齢は高かったですが、意外に女性が多く(3割くらい)、私が思っていたよりも歴史ファンに女性は多いんだなと感じました

ここは女性(芸者さん)の職場だったから、近代女性史の研究家とかが来ていたのかもしれませんし、講師が自分の知り合いを呼んだ可能性もありますけどね

 

▲幕末の三田・田町付近(上が北になるように回転させた)

明治になって海に土台(築堤)を築いて鉄道線路を作ったが

駅(田町駅)だけは、薩摩藩の蔵屋敷跡の上に作ったんですね

蔵屋敷の凹みは船着き場かな?

▼現在の三田・田町付近、主な道路は昔のままですね

 

この日のテーマ「薩摩藩邸焼き討ち事件」というのは、幕末の慶応3年12月25日(旧暦)に三田の薩摩藩邸(三田屋敷)で起きた事件で、場所は現在のNEC本社あたり

まさにそこから歩いて10分くらいの場所で、昨夜の講演会があった訳です

薩摩藩は超巨大な藩だったので、これ以外にも広大な高輪屋敷、白金と渋谷に下屋敷、さらに芝浦の海岸に蔵屋敷など、江戸市中にいくつもの藩邸(大名屋敷)を持っていた

高輪屋敷の跡が現在の高輪プリンスホテルで、蔵屋敷跡は現在の田町駅

この蔵屋敷で勝海舟と西郷隆盛が江戸無血開城の談判をしており、現在の田町駅にはそのレリーフが飾られている

当時の日本にはクリスマスを祝う習慣はまだ無かったから、12月25日は単なる年末

焼き討ち事件の当日(旧暦12/25)は新暦1月19日に当たり、この年の秋に改元されて明治元年になっている

だから、まさに明治になる直前(数か月前)に勃発した事件

「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、出来たばかりの明治新政府と260年続いた旧徳川幕府側勢力が戦った戦争(戊辰戦争)のきっかけになった事件とされています

講師の町田さんという人は、

これを「事件」と呼ぶのはケシカラン!

戦争」と呼ぶべき大事件なんだ!

と力説しており、将来の中学校や高校の歴史の教科書には「薩摩藩邸焼き討ち事件」ではなく「三田品川戦争」と記載されるべきだと主張していました

一般に専門家は、自分の専門領域が世間から過小評価されていると思いがちなので、その気持ちは分かる

まあこれは「戦争」という言葉の定義次第なので、事件でも戦争でも私にはどうでもよかったんですが、単なる小競り合いと呼ぶには少々規模の大きな争乱で、時間はわずか1日ですが何十人も戦死しているのは事実だったようです

三田屋敷にこもって江戸市中で乱暴狼藉をしている浪士(徳川方から見たらテロリスト)約200人を引き渡せという交渉が朝7時から3時間も続いたが決裂

戦闘は交渉決裂直後の朝10時ころから始まって午後4時に終わり、三田屋敷は翌朝まで燃え続けた

一番上の講演会チラシにある錦絵が、そのときの三田屋敷の門前を描いており、すでに炎と煙が出ている

このとき薩摩方の交渉役だった三田屋敷の責任者は、交渉決裂直後に槍で突き刺されて即死しています

三田屋敷を取り囲んでいた旧幕府軍(主力は庄内藩)は約1000人で戦闘準備を整えており、包囲する側とされる側には圧倒的な戦力差があった

薩摩藩邸にこもっていた浪士(徳川方から見たらテロリスト)の多くが殺されたり捕まったりしたが、一部の残党が品川方面に逃げ出した

「窮鼠猫をかむ」にならないよう、包囲する側が包囲の一部をゆるめていたので、そこから逃げた

品川沖に薩摩藩の船が停泊していたので、それに乗って上方(関西)方面へ逃げようという考えで、品川へ向かった

当時、江戸から上方まで歩いて15日だが、船なら風に乗れば2日で、鉄道も自動車も無い時代に最も速い移動手段は船だった

この逃げる薩摩船の近くに幕府の軍艦がいて、品川沖で大砲を撃ち合いながら海戦をしており、講師の町田さんは「事件ではなく戦争」の根拠の一つとしています

薩摩船は激しく被弾して残党は「もうこれまで」と覚悟したが、何とか沈没を免れ、品川沖から脱出しました

三田から品川まで逃げるときに

追っ手を防ぐため、途中の民家に放火しながら逃げた

ので、三田から品川にかけて民家の多くが燃えて焼け野原のようになったそうです(これも「事件ではなく戦争」の根拠の一つ)

官軍と彰義隊が上野の山で戦った有名な「上野戦争」は、同じく1日(朝7時~午後5時)で戦死者300人ですから、これを戦争と呼ぶなら薩摩藩邸焼き討ち事件を「三田品川戦争」と呼んでもいいような気もします

ちなみに戊辰戦争全体では、8000人以上が戦死しています

さらに明治10年の西南戦争では、13000人以上が戦死

この幕末明治期の2つの内戦で、2万人以上が亡くなっている

同時期に起きた米国の内戦(南北戦争)では数十万人が戦死していますから、

戊辰戦争や西南戦争は、内戦として国際比較すると、かなり戦死者数が少ない

ことになります(むしろ米国の南北戦争が多すぎると言うべきか)

これはおそらく産業革命の浸透度の違いで、南北戦争当時の米国では産業革命による近代兵器が戦場に十分に行き渡っていたのに対して、同時期の日本の戊辰戦争や西南戦争には近代兵器がそれよりはるかに少なかった

日本刀で戦っている人も多かったが、日本刀は実用性が低くて戦国時代ですら余り使われず、戦国武器の主力は槍(やり)、弓矢、鉄砲、投石だったから、260年の天下太平による平和ボケかもしれない

すでに日本刀は骨董品や工芸作品(芸術品)として床の間の飾りになっていたが、それを引っ張り出して戦争をしていた

産業革命による科学技術の進歩で、近代兵器の人間に対する殺傷能力が飛躍的に高まった

それ対して、人間の肉体の持つ根源的な生命維持能力はほとんど何も変わらない訳だから、人間は近代兵器で簡単に殺されてしまう(現在のウクライナやガザと同じ)

その後の世界大戦では、米国南北戦争の100倍、数千万人が死んでいます

次の世界大戦(それは今年中かもしれない)で全面核戦争になれば、数億人~数十億人が死に、人類は絶滅に瀕します

最後の将軍となった徳川慶喜は、焼き討ち事件が起きる直前(約2か月前)に大政奉還をしました

そして天皇を中心とする新国家を作り、それを運営する合議体(新政府の最高意思決定機関)の主要メンバーに徳川慶喜も加わる気運が高まっていました

これが徳川慶喜の狙いで、「大政」という名を捨てて「合議体のリーダーシップ」という実(実権)をとる戦略

幕末時点でも、徳川家の領地は全国の約3割あったから、十分にリーダーシップがとれると踏んでいた

それが、この事件がきっかけで戊辰戦争が起き、旧徳川方は天皇に刃向かう「賊軍」となって転落し、明治新政府の主要メンバーから旧徳川勢力はほぼ一掃された訳です

これはまさに、薩摩の大久保利通や西郷隆盛の狙っていた路線

薩摩藩邸焼き討ち事件の発生を知った西郷が思わずほくそ笑んだとか、すべてを背後で仕組んだのが西郷だとする説が定説のように流布していますが、これはやや怪しい

そもそもこの後に続く戊辰戦争で官軍(薩長方は勝ったから官軍になった)が勝つ保証は何もなく、当時の軍事力では旧徳川方が圧倒的に優勢だった

大久保や西郷も、この時点で徳川方に武力で勝てるとは思っていなかった

もし旧徳川方が勝っていれば、薩摩や長州が賊軍になっていた

そうなれば、新政府で最大の影響力を持つのは徳川慶喜だったでしょうから、明治以降の日本現代史はかなり様相が違っていたはず

もし「すべてを背後で仕組んだ者」がいたとしたら、それは薩摩藩の西郷ではなく、土佐藩の板垣退助だったと思われます

板垣退助は明治になって自由民権運動を推進し、

「板垣死すとも自由は死せず」

の名言でも有名ですから、何となく平和主義者のようなイメージがありますが、幕末の板垣退助はテロリストと言っても過言ではない超過激派だった

まあ人間というのは、若いころは超過激派でも、歳をとると丸くなるというのはよくあること(板垣が丸くなったかどうか知らんけど)

つい先日、永年全国指名手配されていた元テロリストが半世紀ぶりに逮捕されましたね

しょぼくれた詰まらないジジイになっていて拍子抜けしました

ちなみに板垣退助のお墓は品川駅の近くにあり、先日の朝散歩で偶然に見つけました

徳川慶喜はおフランスびいきの洗練されたお坊ちゃま都会人だったから、

薩長新政府の田舎臭さとドイツびいき

とは違った雰囲気の新政府になっていたと思います

おフランス風の都会的でオシャレな新政府

になったかどうかは知りませんけど、欧州戦争での

おフランス軍の救いようのない弱さ

を考えると、徳川方が負けて良かったのかもしれません

明治になって帝国陸軍が編成されましたが、東京とか関西など都会出身者で編成した軍隊(聯隊)は士気が低く弱いことで有名で、強いのは九州とか東北だった

便利な生活に慣れた都会人は、戦争には向いてないんですね

戊辰戦争でも主力となって戦ったのは、官軍が九州勢、旧幕府軍が東北勢でした

今や全国的に便利な都会生活に慣れた現代日本人は大丈夫かな?

兵器の性能と品質(信頼性)、それに兵器操作能力が重要な現代戦では、士気の重要性は低下しているそうですから、それに期待したいと思っています

徳川慶喜は非常に頭の良い男だったようで、政治の駆け引きや外交交渉は上手にこなすんですけど、とにかく戦争は下手だった!

戦争が下手なら、戦争が上手な部下に任せればいいんですけど、頭がいい人というのは他人任せにできず、何でも自分がやろうとしがち

個人としては優秀だけど権限委譲の出来ない上司(つまり管理者としては問題あり)という人は、今でもよくいますよね

とにかく、戦争というのは頭の良さだけではダメで、勇気(度胸)が必要みたいです

ボンボン育ちの慶喜にはそれが欠けていて、大久保利通や西郷隆盛にはそれがあった!

徳川慶喜は、明治以降は賊軍としての汚名を着せられ、ひっそりと社会の片隅で趣味の世界に生き、大正2年(1913年)に76歳で亡くなっています

大久保や西郷は、その後の暗殺や戦死で40歳代で亡くなっており、それよりずっと長生きしました

徳川慶喜はケタ外れの趣味人で、銃猟・鷹狩り・囲碁・将棋・投網・鵜飼 ・謡(うたい)・能・小鼓・カメラ・洋画 ・刺繍・ウナギ釣り・湯治 ・花見・釣り・書道・弓・ビリヤードなどに親しんだ

さらに子づくりにも励んで、21人の子どもをつくり、宗家分家が栄えている

徳川宗家の現当主、徳川家広氏は19代目(慶喜は15代目将軍)

広い家にお住まいなのかしら?

(2LDKとかにお住まいなら超ウケるんですけど)

評論家や翻訳家をしていて、そこそこ有名人

昨年秋の藩校サミットにも登場してました

この人、何となく徳川家康の肖像画に似てます

初代と19代目だからかなり離れてますが、血はつながってるので不思議ではない(途中の15代目の慶喜には似てないけど)

法事が年に20〜30回もあるそうで、名家の跡取りというのも大変のようです

徳川家康の法事とか、いまでもやってるのかな?

(^_^;)

 

▲徳川家康

 

▲田町駅の近くにある伝統文化交流館

2階の大広間に明かりが灯っていて、そこが講演会の会場

昔はここで、芸者をあげてどんちゃん騒ぎ?