断腸亭日乗を読む(1)

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前回、永井荷風の偏奇館について書いたので、引き続き永井荷風について書くことにします

前回もかなり引用しましたが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)は、モンテーニュ(→)の「エセー」と並ぶ私の座右の書、枕頭の書で、眠りにつく前などに時々読んでいます

荷風は大正6年(1917年)9月16日、荷風数え39歳(満37歳)のときに一念発起して日記を書き始め、数え81歳(満79歳)で亡くなる前日まで40年間以上、日記を書き続けました

モンテーニュは「エセー」を39歳で書き始め、死ぬまで改訂を続けましたから、よく似ています

モンテーニュは田舎の富裕な貴族、荷風はお金持ちのボンボンで、経済的な立場も似ています

荷風は20世紀の激動の時代に、自分と日本社会を冷静な目で見つめて、日記(断腸亭日乗)に書き残しました

モンテーニュも16世紀の宗教戦争という激動の時代に、自分とフランス社会を冷静な目で見つめて、随筆(エセー)に書き残しました

日記というものは普通、他人に見せないものですが、荷風はのちに見られる(読まれる)ことをかなり意識して書いているようです

もともと戦前から超人気作家だった荷風の日記ですから、生前から一部が初期の荷風全集に入ったり、抄録が岩波文庫に入ったりして、今では日本を代表する日記文学となっています

「断腸」とは、荷風が腸に持病を持っていたことに由来します

実際、日記の中には頭痛と並んで腹痛で苦しむ記述が多くあり、常に医者通いをして荷風を悩ませています

そして最期は、胃潰瘍によって引き起こされた吐血による窒息が死因となり、79歳で亡くなります

まあ、50歳を過ぎたら老人と呼ばれていたころの79歳ですから、かなり長生きした方かもしれません

また、園芸用の植物である断腸花が庭に咲いていたことに関係あるような記述も見られます

「断腸亭」とは、荷風が大正9年に麻布の偏奇館に引っ越すまで、両親弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現、東京都新宿区余丁町)の家の一隅にあった書斎のことです

つまり荷風は、断腸亭という書斎があった実家から、麻布の偏奇館に引っ越して一人暮らしを始めた訳ですが、日記の名前は引き続き「断腸亭日乗」を用いました

▲書斎(断腸亭?)の荷風

大正6年とあり、断腸亭日乗を書き始めたころ、荷風が満37歳くらいで、慶應義塾大学文学部の教授を辞めた直後です

教授辞職の理由は「三田文学」運営方針の対立ということになってますが、荷風の女遊びに陰口を言う別な教授もいたようで、自由人の荷風は大学組織に居心地の悪さを感じていたのかもしれません

上の写真はおそらく、実家にあった「断腸亭」という書斎かと思われます

イスが多いので、書斎周辺のテーブルかもしれませんね

いかにも「お金持ちのボンボン」といった感じで、37歳の荷風がぼんやり座っています

テーブルの上の書類の置き方を見ても、几帳面な人だなぁという印象

几帳面じゃなきゃ、日記を40年も続けないでしょうけど

この翌年(1918年)、麻布に偏奇館を建てて移り住み、完全に自由な作家生活を始めます

 

* * * * * * *

 

私は最近、昭和史に興味が出て来て、その関連の本をぼちぼち読み始めています

私の自分自身の記憶は、日本が高度成長によって、平和で自由で豊かな社会になってからのものばかりです

高度成長期より前の時代は、正直どんな雰囲気の時代だったのかよく分からないのですが、戦争や貧困や不自由が当たり前の暗い時代だったというイメージです

昭和になる直前に起きた関東大震災、そして世界大恐慌、日本の大陸進出と太平洋戦争、さらに戦後の混乱など、当時の日本人にとっても世界史的なレベルでも大変な時代、激動の時代だったはずです

現代史の本などを読むと、主に政治史として書かれているために、満州事変、二二六事件、真珠湾攻撃などが大きく扱われる訳ですが、その背後で普通の日本人がどのような毎日を過ごしていたのか、当時の世情はどんな事件に注目していたのかなどに私の興味があります

これらについて、私が大好きな作家の松本清張や永井荷風、時には林芙美子など読みながら、昭和の前半という激動の時代を生きた日本人の当時の気分を追体験したいと思っている訳です

この三人の中で、永井荷風はお金持ちのボンボンで、残りの二人とは大きく違っています

現在の日本とは比較にならない大きな貧富の格差があった時代ですから、経済的に社会を上から見た荷風と下から見た二人は、当時の社会の実相を知る上で有益です

政治の実態を知りたければ、右(例えば産経新聞)と左(例えば赤旗)の両方を読むといいなどと言われますが、経済の実態を知りたければ、その右左を上下に変えればいいと考えました

私が荷風に心ひかれるのは、彼がトコトン「好きなように生きた人」だからかもしれません

実際、彼にはそれを可能にする経済力や文学的才能がありました

人がその人生を生きる上で、何を主たる基準にしているかを大ざっぱに分けると

A)為すべきことをして生きる人(立志の人)

B)好きなように生きる人(我欲の人)

C)他人の目を気にして生きる人(世間の人)

などがいると思います

表だってABCのどれで生きたいかと問えば、多くの人がAやBを選ぶと思いますが、実際の生き様を見ていると、Cを主な基準にして生きている人(世間の人)が非常に多いのが日本人の実態ではないかという気がします

これは悪いことばかりではありません

最近増えているインバウンドの外国人観光客が、日本の治安の良さや街の清潔さに感動しているようですが、その背景には日本人のCの生き方が大きく影響しているのではないかと思います

ちなみにAの生き方(立志の人)は、人生に志(こころざし)という大目標を持つという生き方で、吉田松陰のような偉人の生き方がその典型です

イデオロギー的な生き方なので、大変な行動力を発揮して社会を変革したりもしますが、時には「正義の人」となって自らの正しさを過信して判断力を失い、テロリストのような過激な行動を起こす危険人物になったりもします

これ(立志の人)は、どちらかと言えば発展途上国的な生き方かもしれません

退廃的な生き方(立志の人とは正反対の生き方)は、フランスのような文化が爛熟した先進国でのみ可能だと荷風も言っています

日本も発展途上国だった明治の初めには、福沢諭吉の「学問のすすめ」「西国立志編」などに刺激された「立志の人」が世間にウジャウジャいて、「末は博士か大臣か」などと立身出世を目指していた訳です

やがて日本が富国強兵で日露戦争にも勝ち、当時の先進国の仲間入りをし、世の中にも余裕が出来てきたころ、立志の人が減り、大正ロマンの退廃的な花が咲いて文化爛熟の時期を迎えた訳です

しかしこの花も、世界大恐慌という大波にさらわれて、激動の昭和へ突入していきます

その大波の下で当時の日本人は、毎日をどのように生きていたか、それを断腸亭日乗は生き生きと記録しています

その土地によって、立志の人が多い場所というのがあります

日本で言えば茨城県の水戸やその周辺がそうで、徳川光圀(黄門さま)が創始した水戸学というイデオロギーで過激な行動(桜田門外の変など)を起こしがちで、最後は藩内紛争が泥沼化した末に天狗党の乱などを起こして悲惨な最期を迎えており、立志の人(正義の人)の危険性を実証しています

海外から見れば日本という国は、やや水戸のような気風があり、真珠湾攻撃のような過激な行動を起こしがちと見られていたような気もします

戦後は大人しくして諸外国から信用を得ており、喜ばしい限りです

私は明治の人間ではありませんし、余り志(こころざし)とか持つタイプではないので、文化が爛熟した日本という先進文明国に生まれたことを幸いに、なるべく好きなように生きたいと思っているのですが、平凡な人間なので他人の目も気になってしまうというのが現実です

それで、他人の目など気にせず好きなように生きたお手本として、永井荷風に注目している訳です

実際、私は永井荷風を尊敬もしていませんし、立派な人物だとも思っていません(もちろん軽蔑もしていませんが)

私は彼のようなお金持ちのボンボンでもないし、彼のような文学的才能も無く、彼のような変態(異常性欲)でもありませんが、ただ彼のライフスタイル、「好きなように生きる」というスタンスに心ひかれているだけです

「好きなように生きる」というのは、言うのは簡単ですが、本気で実行しようとすると世間との軋轢(あつれき)など想定外の困難に直面して周囲から変人扱いされ、よほど強い意志がないと継続が難しい生き方のようです

断腸亭日乗を読んでいると、好きなように生きようとする荷風が、いろいろな困難(世間との軋轢など)に直面して、それにどう対処したかが具体的に描かれていて、それが非常に面白いのです

これはあくまでも一般論ですが、他人観察が好きな多数派C(世間の人)が少数派B(我欲の人)を見ると、社会適応していない「子ども」のように見えることでしょう

少数派B(我欲の人)にとって、社会適応すること(多数派に合わせること)の優先順位が低いのですから、そうなるのは当然と言えます

世の中には、好きなように生きたいのではなく、単に愚鈍なために社会適応できない人もいますから、これと混同視されることは避けられないでしょう

逆に少数派B(我欲の人)が多数派C(世間の人)をたまに観察することがあれば、他人に合わせるだけの思考停止した「馬鹿」のように見えることもあろうかと思われます

そしてBもCも、A(立志の人)を見ると「偉人」あるいは「狂人」に見え、逆にAは自己の志(こころざし)に目が集中していますから、同じようなAタイプ(同志や敵)は別として、その他おおぜい(BやC)に対しては余り関心が無いかもしれません

以上は分かり易く単純化したものであって、現実の人間はこれらタイプの組合せで、しかもABC以外の要素DEF・・・も含むことでしょうから複雑です

人間タイプ分けはこれくらいにして、荷風は有名な「歩くの大好き」人間なので、東京を毎日のようにあちこち歩き回り、その描写も断腸亭日乗には豊富です

当時の東京(あるいはまだ残存していた江戸)の時代性が感じられて非常に面白い

文豪と言われた人ですから、その文章は風景描写の妙を極めており、いま東京を歩くときにその文章を思い出すことで、散歩の楽しみが倍加します

そんな訳で、これで何回目か、今また断腸亭日乗を最初から読み始めています

断腸亭日乗は荷風全集全30巻の内の6巻(21~26巻)を占めており、荷風全集は1巻あたり500~600ページくらいで、全3000ページ以上ですから読み応えがあります

日記ではありますが、分量で言えば荷風最大の文学作品とも言えます

岩波文庫から要約版(摘録)上下2巻(計900ページ程度)が出ていて、私も最初(全集を買う前)はこれを読みました

今回は、大正6年の書き始めから大正末年まで、やや読み飛ばしながら進み、昨日は昭和2年を読みました

昭和元年は大正天皇の崩御が年末だったので1週間しかなく、昭和史は実質、昭和2年から始まります

そして今日は、昭和3年をいま(6/2)読み終えたところ

このとき荷風は数え50歳(満48歳)で、今風に考えればまだ若いのですが、頭痛、腹痛、歯痛など常に健康上の危機に遭遇して、毎日のように医者通い

このころの日本人の平均寿命は50歳くらいだったはずですから、周囲からも老人扱いされがち

かなり参っていて、日記の中で「せめてあと1年生きたい」などと弱気なことを言っています

それでも医者通いのあと、銀座のカフェー(現在の高級クラブ)「タイガー」には毎晩のように通い、20歳少々の愛人(おめかけさん)であるお歌さんのいる妾宅(しょうたく)「壺中庵(こちゅうあん)」にはしょっちゅういりびたる毎日を過ごしています

荷風の著作が「円本」という当時のベストセラー出版で爆発的に売れ、そのおかげで相当な金額の印税を荷風が得たと世に報ぜられるや、それを目当てに共産主義者を自称する乞食が毎日のように自宅(偏奇館)にやってきて、金を貸せとか寄付をしろなどと暴力的なユスリタカリをする

それがイヤで自宅(偏奇館)を留守がちにして、妾宅「壺中庵」に入り浸り、50歳でもうすぐ死ぬようなことを言いながら退廃的に暮らしています

実際はこのあと元気を回復し、戦争や空襲にも生き延び、79歳まで生きましたけどね

これから毎日1年分ずつくらい、今月中じっくり楽しもうと思っています

▲荷風とお歌さん(おめかけさん関根歌)

上の写真は、このころお歌さんと撮った写真です

たぶんどこかの写真館で撮ったのか、二人ともしっかりおめかししていますね

お歌さんは20歳くらいまで「寿々竜」という名で麹町の芸者をしていたので、着物もキリッとしていて粋な感じです

荷風はお歌さんを非常に気に入っていて、日記の中で激賞しています

人の好き嫌いが激しく、日記の中で他人への罵詈雑言を並べている荷風にしては非常に珍しいことで、28歳も歳下のお歌さんを、恋人でしかも娘のように思っていたのかもしれません

実はお歌さんは、まだ20歳を過ぎたばかりですが、荷風が思っているほど純朴な人ではなく、なかなか商才もあり(このあと荷風に出資してもらって待合茶屋の経営を始めている)、荷風を手のひらに乗せて上手に利用しているようなしたたかな側面もあります

恋の結晶作用で盲目になった荷風は気がつかなかったのか、あるいは気がつかないフリをしていたのか?

上の写真を見ても、なかなか理知的な美人で、今ならキャリアウーマンや女性起業家などしても似合いそうな感じ

下の写真もお歌さんらしいのですが、ヘアスタイルが違うとまるで別人のようです

断腸亭日乗に登場するお歌さんは、下の写真のイメージです

妾宅「壺中庵」(お歌の家、芝区西久保八幡町、現在の港区虎ノ門五丁目)か、または荷風が出資しお歌さんが経営した待合茶屋(千代田区三番町、麹町の近く)での写真かと思われます

荷風はこの部屋のこたつにもぐって寝転び、お歌さんに肩をもんでもらったりしながら、日がな一日、のんびり退廃的に過ごしていたのかもしれません

荷風とお歌さんは、やがておめかけさん関係を解消しますが、その後も友人としての関係は続き、荷風が亡くなる直前までお歌さんは時々荷風を訪ねて旧交を温めています

荷風には少なくとも16人の愛人(おめかけさん)がいたと本人が日記に書いていますが、お歌さんはその中で最も長く関係が続きました

お歌さんには「日蔭の女の五年間」という、荷風のおめかけさん時代の回想記があり、

「夜の時間を、先生は昔ばなしを私にきかせてくださるのでした。アメリカやフランスに行かれた時のこと、交渉のあった女のひとのおのろけ話で夜をふかしました。また芸者や女給さんたちの色っぽい噂話がたいへんお好きでした」

と書いています

(^_^;)~♪

 

▼荷風のお歌さんに対する評価

「断腸亭日乗」昭和3年2月  「荷風全集」第22巻

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