▲偏奇館
今から104年前の大正9年(1920年)5月23日、作家の永井荷風は麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)の新居に移り住みました
有名な「偏奇館」(へんきかん、またはぺんきかん)という一戸建て、当時としては珍しいペンキ白塗り洋風建築なので「ペンキ館」なのだと、荷風はその日記「断腸亭日乗」の中で述べています
▲「断腸亭日乗」大正9年5月 「荷風全集」第20巻
▲偏奇館の前 永井荷風
▲偏奇館の窓 永井荷風
▲偏奇館の内部
彼の代表作「墨東奇譚」をベースに、「断腸亭日乗」から肉付けした映画「墨東奇譚」の冒頭、偏奇館に荷風の母親が訪ねてくる場面があり、その母親は
「変人の住まいだから、偏奇館(変奇館)かと思った」
と語り、荷風は
「当たってますねぇ」
と応じます
▲映画「墨東奇譚」▼
▲永井荷風の父、永井久一郎
永井荷風の父、永井久一郎は、高級官僚から民間大企業(日本郵船)の経営者に転じた人物
政府要人にも知遇が多く、永井家は江戸時代には豪農だった富裕な家系です
永井荷風は、親の財産のおかげで若いころから経済的な苦労をほとんどしていません
同じ作家でも、有名になるまで極貧に苦しんだ林芙美子や松本清張に比べると、その対極にいた人物と言えます
しかも人生の途中からは小説の印税収入にも恵まれ、亡くなったときの巨額な遺産で世間を騒がせました
▲荷風の死を報ずる新聞記事(1959年)
貨幣価値が現在の数十倍の時代の3000万円
荷風の父、永井久一郎は、荷風にビジネスの修行をさせて実業家にしたかったようですが、そんな父の期待を無視して、荷風はどんどん自分の好きな道を歩みます
しかし、自分の母親からも「変人」と呼ばれたほどの人物なので、性欲だけでなく金銭欲にも変人っぷりを遺憾なく発揮し、その吝嗇(りんしょく)ぶりでも有名でした
彼は銀座のカフェー「タイガー」(現在の高級クラブやキャバクラのような存在)が大のお気に入りで、連日足繁く通うのですが、そのカフェーの女給(現在のホステスやキャバ嬢のような存在)に与えるチップもケチっていたようです
映画「墨東奇譚」にもそのような場面が出て来ます
▲銀座5丁目にあったカフェー「タイガー」の夜景
まだ日本語横書きの方向が定まっていない時代
現在の銀座の高級クラブの多くが雑居ビルの一室やワンフロアなのに対して、カフェー「タイガー」は一つのビル全体と言える大きな店で、内装も豪華でした
カフェー「タイガー」は、文藝春秋社や芥川賞直木賞を創った菊池寛など、多くの作家や文化人が常連客として利用し、当時の文壇の社交場のような雰囲気も呈していました
▲カフェーでダンスをする菊池寛
菊池寛はケチな荷風とは違って女給へのチップにも気前が良かったが、残念ながら余りモテず、それを中央公論社に暴露揶揄されて激怒、編集部を襲撃して編集者を殴るという事件を起こしました
北野武によるフライデー編集部襲撃事件(1986年)は、菊池寛のこの事件を意識しての行動だったのではないかと思われます
人の好き嫌いが激しかった荷風ですが、特に菊池寛を非常に嫌っており、「断腸亭日乗」には菊池寛への罵詈雑言が満ちています
「タイガー」の近くには、カフェー「ライオン」もあり、顧客の奪い合い、女給(ホステス)の引き抜きなどで激しく争っており、虎とライオンの戦いは世間の耳目を集めていました
荷風は、そんなカフェー通いをしたり、おめかけさんを囲ったり、
偏奇館時代 1920~1945年、荷風40~65歳
に好き放題の自由な独身生活を楽しみながら、一方では多くの文学作品を生み出し続けます
荷風は
「人生に三楽あり(読書と酒と女)」
と語っていますが、荷風文学と荷風の女遊びは切っても切れない関係にあります
偏奇館に移り住む前、31歳から数年間は慶應義塾大学文学部の教授をつとめ、今も続く文芸雑誌「三田文学」は、荷風が初代主幹となって創刊されました
教授時代の荷風は、妾宅(しょうたく、おめかけさんを囲った家)から授業に通ったりする変人教授としても有名で、そのことを隠しもしなかったので他の教授から批判されたりもするのですが、彼の授業は学生からは人気が高く、特に雑談が面白いと言われていました
▲荷風とお歌(おめかけさん)
荷風は生涯に、少なくとも16人の愛人(おめかけさん)を持ったと言われています
ちなみに昭和の途中まで、男が愛人(おめかけさん)を持つことはさほど悪いこととは見なされず、むしろ「男の甲斐性」とも見られていました
「三流の男の正妻よりも、一流の男の妾(めかけ)になりたい」
と公言する女性もいたのです
新しい1万円札の顔になる渋沢栄一も、16人かどうか知りませんが、多くの愛人(おめかけさん)がいたことが知られています
現在の1万円札の顔である福沢諭吉は、「私は妻以外の女性と関係したことは無い」と公言していましたから、福沢から渋沢へ「大きな変化」と言えるかと思います
昭和の途中から現在まで、女権拡張運動の流れの中で、
男性の性欲を罪悪視するような、おかしな風潮
がありましたが、その流れが変わるきっかけになるかもしれません
人間の物欲や所有欲を否定した共産主義社会が崩壊したように、人間の本能に基づく自然な欲求を過度に否定するような社会制度や価値観には無理があり、長持ちしないような気がします
男の性欲が無ければ人類はとっくに滅亡していた訳ですから、男の性欲と女の母性が人類の子孫繁栄を支えるクルマの両輪であると言えます
性犯罪を憎んで性欲を罪悪視するのは、泥棒を憎んで物欲を否定するようなものです
ちなみに、聖人君子のような福沢諭吉ですが、やはり男というものは飲む打つ買うの一つくらいは道楽があるもので、福沢は酒がことのほか大好きで、幼い子どものころから酒には目が無かったと自伝に書いています
▲酒ダイスキ ▼女ダイスキ
昭和20年(1945年)3月10日払暁の東京大空襲で偏奇館が炎上し、荷風はほぼすべての蔵書を失います
当時は空襲(都市への無差別爆撃)が激しくなる時期で、多くの作家や文化人は、その蔵書を地方へ疎開(避難)させていました
荷風も蔵書を疎開することは可能で、それを実行する経済力もあったのに、なぜそれをしなかったのか?
これは私にとって大きな謎で、どこかに理由が判明する記録が残っていないか探索中です
ちなみに、荷風の後輩で親交のあった谷崎潤一郎は、蔵書だけでなく彼自身も早々と関西などへ疎開し(大正12年の関東大震災のあとですから、かなり早い)、空襲を免れています
偏奇館炎上後に各地を転々とした荷風が、勝山(現在の岡山県真庭市)に疎開中の谷崎潤一郎邸を訪れます
まだ戦争中(終戦の数日前)でしたが、文壇デビューで荷風の世話になった恩義のある谷崎は、牛肉のすき焼きと日本酒2升で荷風をもてなします
数日前に近くの広島に原爆が落ちたばかり、多くの国民が餓死寸前で苦しんでいた時でも、あるところにはあったようです
このとき谷崎は、牛肉1貫(約3・75キロ)を200円で買ったそうです(当時の都市銀行の大卒初任給が80円くらい)
現在なら100グラム2万円くらいの牛肉を、75万円分(!)用意したことになります
いくら腹が減っていても、1回の会食に二人で肉3・75キロは食えないでしょうから、残りは後からゆっくり、谷崎が食ったのでしょう(谷崎はグルメで有名)
▼「断腸亭日乗」昭和20年3月 「荷風全集」第25巻
偏奇館のあった場所(現在の六本木一丁目)には、その後の再開発で、現在は高層ビル「泉ガーデンタワー」が建っています
古き良き江戸の街並みや風情を愛し、それが破壊される東京の都市開発を嫌っていた荷風
もし荷風が今生きていて、このビルを見たら何を思うでしょうか?
▲偏奇館跡に建つ泉ガーデンタワー
私もつい最近まで、六本木のすぐ近く(元麻布)に長らく住んでいました
なぜ六本木に住んだのかと問われ、荷風(偏奇館)の影響が無かったと言えば、ウソになりそうな気がします
(^_^;)~♪
* * * * * * * * * *
以下、「断腸亭日乗」の終戦前後
苦労しながら谷崎邸にたどり着き、すき焼きをふるまわれる場面があります
荷風もこのころは食糧に苦労していたので、その感激は大きかったはず
すき焼きについて詳しい記述が無いのは、日記の内容が万一外部に漏れたとき、ヤミ肉ヤミ酒を手に入れてくれた谷崎に迷惑がかからないための配慮と思われる