p

映画「浮雲」を観る

 

昨年の秋に作家の林芙美子に興味を持って、新宿の林芙美子記念館などを訪ねたりしていた頃から、早く観たい映画だと思いつつ、やっと今日いま鑑賞しました

原作はまだ読んでいないので、その評価はできませんが、さすが日本映画を代表する名作だけあって圧倒されました

あの小津安二郎監督が、自分にはとても作れないと評価した映画が、溝口健二監督の「祇園の姉妹」と成瀬巳喜男監督の「浮雲」だそうです

私はフランス映画がダイスキでいろいろ観ていますが、世界の映画界で米国ハリウッド映画とは全く異なる独特な世界観を持った映画群となると、日本映画とフランス映画が双璧ではないかと思っています

フランス側もそう思ってるようで、フランス人の映画監督で、日本映画から強い影響を受けた人は少なくないようです

フランス人は極めてプライドが高く、フランス以外の国をたいてい下に見て馬鹿にしています(だから周辺国からフランス人は、非常に嫌われている)

これほど差別意識(中華思想)の強い国は、世界でも中国とフランスくらいで、他に無いんじゃないかな(フランス人は「ヨーロッパの中国人」と呼ばれている)

そんなフランス人、さすがにイギリスは好きではないが同レベルの先進国として評価していますが、アメリカとかドイツは田舎者扱いで、それ以下の国なんて奴隷か動物みたいな扱いをします

そんなフランス人が、日本文化には一目置いているのは面白いことです

林芙美子原作の映画では、すでに「放浪記」を観ましたが、こちらは大正~昭和初めが舞台で、作者林芙美子のパワフルさが前面に出て、貧しいながらも活力にあふれた作品

対する今日の「浮雲」は、戦前~戦後の混乱期の、男と女の関係をもっと静かにしっとりと描いています

どちらも高峰秀子主演で、パワフルな役も静かな役も、見事に演じています

女優ですから美人なのは当然として、どちらかと言えばカワイイ系の高峰秀子が、単なるカワイコちゃん演技ではなく、実に驚くほど表情の豊かさを見せています

最近1世紀以上の日本映画の歴史の中で、これほど表情豊かな(つまり演技力が高い)女優は、そうそういないように思われます

「浮雲」のストーリー自体は割と単純で、農林省の役人富岡(森雅之)が戦前戦中の仏印(ベトナム)の森林管理事務所に勤務し(たぶんノンキャリ)、そこで働いていたタイピストゆき子(高峰秀子)と恋に堕ちる

そして終戦と共に二人はボロボロになって別々に日本に戻るが、富岡には日本に妻がいて、ゆき子との約束(いずれ妻と別れる)を守らないという、実によくあるパターン

しかも富岡は、目の前に現れる女に、次から次へと目移りしてゆく

そんな優柔不断で生活力に乏しいダメ男の富岡だが、ゆき子は何がいいのか(たぶんカラダの相性がいいんだろうけど)そんな富岡と別れられずに追い求め続けるし、富岡もズルズルと不倫関係を続けます

何やら、「風と共に去りぬ」のスカーレットとダメ男アシュレーの関係を思い出します

この種のダメ男を好きになる女は世の中に多く、男である私から見ると何ともフシギなのですが、たぶんその頼りなさが母性本能を刺激しているのかな?などと思ったりもします(永遠の謎)

「この人は、私がいないとダメな人なの!」などと言い張る女を見ると、男でも時には頼りなさが武器になったりするんだなぁと思います

そして「お前が甘やかすから、ダメなままなんだよ」などと言ってやりたい衝動にもかられます(バカバカしいから、そんな野暮は言わないけど)

ゆき子は生活のために紳士的な米兵の情婦(パンパン)になったりして、この辺の「焼け跡闇市」の情景描写には興味を引かれます

ふつう戦争に負けて占領軍(進駐軍)が入って来ると、虐殺とか強姦が山ほど起きるのが世界史の常識で、現在のウクライナでもそんな悲劇がいっぱい起きていますが、なぜか昭和20年代に日本を占領した米軍兵士は驚くほど紳士的でした

これほど紳士的な占領は、世界史でもほとんど例が無い

戦争に負けて占領されるなら、民度の高い紳士的な文明国に占領されるべきで、民度の低い野蛮な国に占領されると、虐殺や強姦などでトンデモないことになります

もしあのとき、ロシア(ソ連)が日本占領軍に加わっていたらと考えると、ゾッとします

物語の舞台は戦前戦後(たぶん昭和15~25年くらい)で、撮影は昭和20年代後半

私が生まれる前の東京の情景が多数登場しますが、ここがどこなのかほとんど分からないほど、東京の風景は昔も今も激変し続けています

下の写真は千駄ヶ谷駅で、後ろは新宿御苑のはず

位置関係は分かるのですが、こんな木造駅舎は見たこともないです

((((;゚д゚))))

 

▲木造の千駄ヶ谷駅

まだ駅前の高速道路も無い

 

▲千駄ヶ谷駅で待ち合わせた直後の場面だから

富岡とゆき子が歩いているのは新宿御苑

すでに歩道が、ちゃんと整備されてますね

 

▲ゆき子が住んでいる焼け跡バラックのボロボロの家

電気も無くてローソク照明だが、壁に貼ってある段ボール箱!

クリネックス・ティシューって、この頃からあったの?

リバイバル 下妻物語

なつかしい映画「下妻物語」がリバイバルだそうです

2004年公開だから、もう20年前、そのころに観た記憶があります

茨城県の下妻に住む、ロリータとヤンキーという、一見すると正反対のタイプの女の子二人が、不思議な友情で結ばれる

超マイペースのロリータ少女(深田恭子は、はるばる代官山までロリ服を買いに行く

20年前の代官山は流行の最先端だったけど、今は少しさびれているそうです

対するイケイケ暴走族のヤンキー少女(土屋アンナ

茨城県といえば、ヤンキーの本場ですからね

その特攻服の仕入れ先は地元の「ジャスコ」

もう「イオン」になって消えちゃった、あのジャスコ

深田と土屋、二人とも超ハマリ役で、実にいい映画でした

ゴスロリにヤンキー、今でもいっぱいいますから、少しも古くなってない

(^_^;)~♪

 

* * * * * * *

映画『下妻物語』リバイバル上映
上映日:2024年7月19日(金)~
監督・脚本:中島哲也
原作:嶽本野ばら「下妻物語」(小学館文庫刊)
出演:深田恭子、土屋アンナ、宮迫博之、篠原涼子、阿部サダヲ
鑑賞料金:通常料金
場所:渋谷ホワイトシネクイント
住所:東京都渋谷区宇田川町15-1 渋谷パルコ8階

 

▲ゴスロリ服

 

▲特攻服

 

都知事選 小池三選 石丸健闘

まだ最終数字ではありませんが、都知事選の結果が出ています

大方の予想通り、「おい小池」が三選

前回選挙の公約を一つも実現せずの当選ですから、「公約って何なの?」という感じ

それだけ都民に危機感が乏しく、今の日本や東京の政治がいろいろ問題を抱えながらも、有権者は現状維持を選択したということで、それなりに悪くない社会が実現できている証(あかし)なのかもしれません

たしかに円安による物価高などもありますが、そのおかげもあって輸出企業を中心に日本経済は絶好調

経済崩壊が確実な中韓に比べれば、日本経済の強さは際立っていて、日銀が金利政策を変更すれば現在の円安が終わることはほぼ織り込み済み

川口あたりでクルド人が暴れてますが、移民で社会が崩壊しそうなヨーロッパに比べれば、まだはるかにマシ

戦争で毎日大量の人命が失われているロシア、ウクライナ、ガザなどに比べて、日本はアクビが出るほど平和そのものです

そこそこうまく回っているなら、いや多少の問題があっても致命的でさえなければ、現状維持が最適な選択、これは16世紀に「エセー」を書いたモンテーニュの言葉

確かに歴史を見れば、変革が変革前より悪い結果をもたらした例は山ほどあります

共産革命などまさにそれで、特権階級が貴族から共産党員に変わっただけ

反体制活動でつかまった場合、共産革命前ならへき地に移送される程度で行動は自由だったが、共産革命後は即座に処刑や拷問で、スターリンは数千万人、毛沢東は1億人近くを虐殺した

中世のキリスト教十字軍と並ぶ、狂気の大量殺人集団が共産党だ(殺した人間の数は、共産党の方がはるかに多いが)

そんな共産党に全面支援されたのが、今回3位の蓮舫

それはさておき、石丸が驚くほど健闘した!

安芸高田市長として注目を集めていたとはいえ、都政には全くの新人、それが「おい小池」の半分以上の得票

かれはまだ41歳で超若いですから、今後の政界で「台風の目」になるでしょう

「おい小池」が今後4年間の都政で、石丸に集まった改革派の意見を無視し続けることは難しくなった

そして第3位に共産党全面支援の蓮舫

中国共産党の工作員(スパイ)とか、習近平の犬とか、二重国籍犯罪者とか言われてますが、それでも2割の得票というのには驚きます

いったい、どんな人が蓮舫に投票しているのか、顔を見てみたい気もします

芸能タレント時代の知名度に加えて、反日野党(立憲、共産など)と反日マスコミ(朝日毎日NHKなど)が全面的に応援した結果ですが、まだあなどれない存在です

ちなみに3人の年齢をみると、41~56~71歳と、みごとに15歳きざみ

「おい小池」の四選は年齢的にキビシくなるが、「公約を守らなくても当選」の味をしめたから、今後4年間は公約に縛られず気楽なもんでしょう

蓮舫はもうすぐ還暦で、すっかり老けた

もう若さで売れる歳ではなくなったし、東アジア情勢の緊迫などで中韓嫌いの日本人が激増してますから、蓮舫の先細りは確実

実は蓮舫には隠れた目的があり、それが衆院への鞍替え(くらがえ)

政界では参院議員より衆院議員の方が「格が上」で威張ってられますから、権力欲の強い蓮舫は、格下の参院議員でいるのが耐えられなかった

都知事選立候補を口実に参院議員を辞め、次の衆院選を狙っている訳ですが、今回3位惨敗の結果を見て不安を感じていることでしょう

41歳の石丸は、政界では驚異的な若さで、まだ未知数の部分も多いですが、「台風の目」になって沈滞した日本の政界をかきまわして欲しい

50人以上が立候補した今回の選挙

都知事選は毎回「奇人変人大会」などとも呼ばれ、今回もなかなか個性的な面々がいましたが、3位と4位の間にはヒトケタの差がありますから、残りの泡沫候補へのコメントは略します

あと今回いろいろ話題になった選挙ポスターの掲示板

あれは税金の無駄づかいだから廃止するか、現在の10分の1以下に数を減らした方がいいと思います

いっぱい貼ってあったNHK党ポスターの

「NHKに受信料を支払う人は、馬鹿だと思います」

という主張には笑えましたけどね

それからフランスの選挙などで、1回目の投票で過半数の当選者がいない場合、上位2人で決選投票をやるという仕組み

これは日本も早急に取り入れて欲しいものです

投票を2回やる選挙コストは馬鹿にならないかもしれませんが、掲示板につかっている無駄な選挙コストに比べれば、はるかに有意義です

(^_^;)~♪

訃報 浜畑賢吉さん 81歳

私が初めてミュージカルの舞台を観たのは20代のころ

劇団四季の「コーラスラインだった

浜畑賢吉さんが主役と言うか、かなり目立つ役だった

前田美波里さん、市村正親さんも出ていた

最前列で観たので、浜畑さんの汗が飛んでくるような感じ

もうウン十年も前の話で、浜畑賢吉さんもまだ若かった

ミュージカルの舞台に立つには、体力がいりますからね

それで一時ミュージカルにハマって、劇団四季の会に入ったりして、ミュージカルの舞台もいくつか観たけど、結局「コーラスライン」が一番良かったように思います

ストーリーは、舞台に立ちたいダンサーのオーディション(選抜試験)で、まさにいま舞台に立って踊っている人たちにとって切実なテーマ

オーディションでは、誰にも平等にチャンスを与えられるが、そのチャンスをものにするかどうかは、100%本人の才能と努力しだい

まさに自由とチャンスの国アメリカを象徴するようなストーリー

これが日本の芸能界だと、親の七光りとか裏の人間関係とか、あるいは芸能事務所の力関係なんかで選抜されて、暗くウェットな感じになりがち

もちろん本当のアメリカ芸能界が、100%実力主義だけとは思いませんけど

「コーラスライン」は、今でもキャストを入れ替えて、劇団四季の看板ミュージカルとして続いているようです

(^_^;)~♪

警察官を逮捕 特別公務員暴行陵虐致傷

特別公務員暴行陵虐致傷(とくべつこうむいんぼうこうりょうぎゃくちしょう)という、オドロオドロしい罪名

なぜ50歳代という分別ある年代の警察官が、それほど激怒したのか?

暴行されたという女は、どんな態度をとったのか?

「無関係の施設に立ち入った」とあるので、この女は不法侵入の現行犯ではないのか?

「全治約1週間の軽傷」というのは、かすり傷程度なのか、もっと重い怪我なのか?

女が自分で首をひっかいて、被害を偽装したのではないか?

もし女が逃走をはかったのなら、身柄確保のため、多少は手荒な方法をとるのは、警察官に許される範囲内ではないのか?

痴漢でっち上げなんかもそうですけど、世の中には犯罪者のくせに被害者のフリをする悪党なんて、いくらでもいる

などといろいろ想像してしまうフシギな事件

(^_^;)~♪

* * * * * * * * * *

事情聴取中の女性に暴力を振るい怪我させたとして、警視庁は7/3、50歳代の警察官(代々木署地域課警部補)を特別公務員暴行陵虐致傷容疑で逮捕した。

捜査関係者によると、警察官は6/19、渋谷区内の交番で勤務中、事情を聞いていた20歳代の女の体を床に押さえつけるなどし、女性の首などに全治約1週間の軽傷を負わせた疑い。

女は無関係の施設に立ち入ったとして、施設関係者に連れられ交番を訪れていた。

警視庁は警察官が女の態度に腹を立て、暴行したとみて詳しい経緯を調べている。

コルビュジエ絵画展 大倉集古館

永井荷風の偏奇館があった場所の近くに、大倉集古館という美術館がある

明治大正期に大倉財閥を創業した大倉喜八郎が、そのコレクションを展示するため、自邸の一角につくったもの

大倉集古館は、そのうち観に行こうと思いつつ、まだ行っていない

コルビュジエは上野の西洋美術館を設計した、20世紀を代表する建築家

そのコルビュジエは、建築だけでなく絵画も残しており、その展覧会が大倉集古館で開かれている

実はコルビュジエ、元々は画家を目指していたが、

ピカソに出会ってその才能に圧倒され、建築家に転じた

とも言われている

作曲家の平尾昌晃も、かつて歌手を目指していたが、藤圭子に出会ってその歌唱力に圧倒され、歌手を諦めて作曲家に転じたと言われている

コルビュジエも平尾昌晃も、転じた先の分野で才能を発揮して一流になっているから、もともと大変な天才だった訳で、

天才が「もっとスゴい天才」に出会った

という話だ

凡才が天才に出会って挫折するのは余りにもありふれた話だが、天才が天才に出会うとドラマが生まれる

正直言って、ピカソの絵のどこがスゴいのか、凡才の私にはよく分からない

さらに岡本太郎になると、そこらの子どもの絵との違いが、私には分からない

藤圭子の歌唱力がスゴいのは私にも分かるが、抽象絵画とか現代音楽の世界になると、私にはよく分からない「天才」がいっぱいいる

天才がその進路を変えるほどの影響を受けた「もっとスゴい天才」なんだから、たぶんスゴいんだろうけど、分からないものは分からない

歴史をたどれば、天才が生存中にその才能を世に認められるのは、ごく最近までめったにないことだった

無視されるくらいならまだマシで、周囲から奇人変人として村八分になったり、火あぶりの刑で処刑されたりもしている

現在のような自由主義競争経済では、天才の才能が企業や国家の盛衰を左右するので、社会が必死になって天才を探している

天才にとっては幸せな時代だが、富や名誉が天才に集中しすぎて、凡才にはつらい時代になりつつあるようにも思える

(^_^;)~♪

▲ピカソとコルビュジェ

 

 

 

断腸亭日乗の年齢別ページ数

先日、もう何回目か忘れましたが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」の全体を通しで読みました

日記の記述が充実していて読み応えのある年と、そうではないサラっと簡潔な年がありました

それで、荷風の年齢別の日記ページ数をエクセルで集計してグラフ化したのが上の図です

横軸の青い▲の数字が荷風の満年齢、赤い▲は偏奇館炎上で、荷風が書斎と蔵書を失った年(終戦の年)、縦軸がページ数です

40歳台半ば~60歳台半ばにピークが来ています

作家の主要な活動である小説の執筆には、ある程度の人生経験が必要なので、作家の活動(執筆)のピークは人生の後半に訪れることが多く、小説と日記の違いはありますが、上のグラフ(日記)もほぼ一致しています

音楽や美術のような純粋芸術、あるいは文学でも芥川龍之介のような天才肌の作家ですと、もっと若いころに活動のピークが来るのかもしれません

赤い▲の終戦の年(1945年)を過ぎるとガクっと落ちているのは、やはり偏奇館炎上で書斎と蔵書を喪失したショックと、間借り生活による執筆環境の悪化かと思われます

とにかく、雨が降ってもヤリが降っても、空から爆弾が落ちてきても、40年間1日も日記を休まなかった

もちろん、数日分を後からまとめて書いたりは、していたんじゃないかなぁとは思いますけど

そして荷風はそのまま老化を迎え、71歳以降は、「×月×日、晴、正午浅草」のような非常に簡素な記述が続きます

荷風が70歳のころ(1950年前後)、男性の平均寿命が50歳台後半でしたから、当時の70歳というのは現在の90歳くらいの「長生き感」だったのではないかと思われます

サザエさんの父(磯野波平)は54歳という想定で、昭和の途中までは、40歳を過ぎたら初老、50歳を過ぎたら完全に老人でした

このころ会社の定年は50~55歳でしたが、多くの人にとって定年後の人生は、現在ほど長いものではなかったようです

わずか半世紀ほどの違いですが、日本の平均寿命の伸びは驚異的です

最後の亡くなった年(1959年)の記述が少ないのは、亡くなったのが4月末で、日数が半年分以下しかない影響です

50歳から3年間と63歳の1年間が落ちていますが、これは理由がよく分からず、今後の関心テーマです

永井荷風の偏奇館へ

断腸亭日乗を読む(2)

▲浅草オペラ館の楽屋で踊り子に囲まれる

荷風は浅草の侘びて貧しげな雰囲気を好んだ

前回(6/2)、昭和3年まで読み、残り荷風が亡くなる昭和34年まで(30年分)を、今月(6月)いっぱいかけて読むつもりでしたが、早くも読み終えました

この期間は、昭和大恐慌から戦争、そして戦後の混乱という大事件が続き、まるで大河ドラマを観るようでした

荷風は頭痛腹痛など病気がちで医者通いが続き、昭和9年、医者からホルモン注射(ビタミン注射のようなもの?)を勧められてこれを受け始め、にわかに元気を回復します

日乗を読んでいると、独身の荷風の食生活は、ほとんど毎日外食

好き嫌いが激しい荷風ですから、栄養が相当に偏っていたのだろうと思われます

医者からも野菜をもっと食べるように言われるのですが、そんなアドバイスくらいで好き嫌いが直る訳もなく、そこに受けたホルモン注射ですから、即座に効いたのかもしれません

▲当時の浅草 手前左がオペラ館 クリックで拡大

元気になると、以前からの銀座浅草通いが再び頻繁になり、さらに荷風の作品を上演していた浅草オペラ館の楽屋に入り浸るようになります

荷風はオペラ館の館主から多少迷惑がられても、メゲずに毎日のように楽屋に現れます

ただのおっさんではなく、一応は芝居(オペラ)の台本の原作者ですから、さすがに館主も面と向かって「帰れ」とは言いにくい

芝居を原作した作家先生が毎日のようにやって来て、芝居がハネた後は食事をごちそうしてくれる訳ですから、踊り子たちには大モテ

若い女の子がダイスキな荷風は、ここを「天国のようだ!」と言っています

踊り子たちに囲まれてウレシそうにしている荷風の写真、それが有名作家のゴシップネタとして新聞や雑誌にたびたび載ったので、世間に「荷風=変人」という評判が染み渡ります

さらにこのころ散歩で下町の私娼窟「玉の井」(たまのい、下の地図の右上)を偶然に訪れ、そこの娼家の侘びた雰囲気にホレ込み、ここにも毎日のように通い始めます

このときの玉の井での経験が、荷風の代表小説「墨東奇譚」(ぼくとうきだん)になります

その後「墨東奇譚」は2回映画化され、私はその2回目の映画で永井荷風という作家の存在を知り、のめりこむきっかけになりました

荷風はこのころを、「わが最も幸福な時期」としています

▲私娼窟「玉の井」

映画「墨東奇譚」 右上は主演女優の墨田ユキ

やがて世界大恐慌と戦争の暗い影が、荷風だけでなく日本人全体の生活を追い詰めていきます

米軍の空襲(無差別爆撃)による直接的かつ物理的な破壊は昭和18~20年ですが、その前10年間くらい、日本の軍部独裁政権が国民生活の隅々まで統制圧迫の網をかけます

荷風はそれに憤り、米軍よりも日本軍人政府による被害の方が大きいと日記に記します

実際この期間の統制圧迫は、まさに重箱の隅をつつくように国民生活の細々した日常生活に及び、真綿で首を絞められるように国民は疲弊窮迫していきます

▲当時の「ゼイタクは敵だ」などの看板

日本人お得意の集団主義の悪い面が出て、「国家総動員」「ゼイタクは敵だ」などの勇ましいかけ声と共に、個人生活の自由や幸福を破壊することそのものが隠れた目的になっていきます

この期間、日ごろ成功者や幸福そうな人への嫉妬心を心に秘めていた連中が、ここぞとばかりに「正義の人」となって、政府のお墨付きをいいことに、弱い者イジメで憂さ晴らしをしていたようです

荷風も日記の中で、「日本人は世界で最も嫉妬心の強い民族だ」と糾弾しています

個人生活の重箱の隅をつつくような統制圧迫の実態は、余りにも細かすぎてここに要約など出来ず、ご興味があれば直接「断腸亭日乗」をお読みいただくしかないと思います

この期間の「断腸亭日乗」における日常生活困窮の詳細な描写は、近現代史の研究者からも貴重な史料として高く評価されています

やがて浅草オペラ館は取り壊しになり、私娼窟「玉の井」一帯は空襲で焼け野原になり、荷風の「わが最も幸福な時期」は終焉を迎えます

荷風の自宅「偏奇館」も、昭和20年3月の東京大空襲で炎上焼失し、荷風は自宅と蔵書を失います

荷風は知人宅などを転々とし、その先々も含めて合計3回も空襲に遭いますが、奇跡的に3回とも生き長らえます

戦後も知人宅への間借り生活が続くのですが、昭和27年に文化勲章を受章し、芸術院会員にも列せられます

それでも亡くなる直前まで浅草通いをやめなかった荷風

高齢になった荷風の日記は、「×月×日、晴、正午浅草」のような非常に簡素な記述が続き、最後の日記「四月二十九日。祭日。陰。」の翌日に満79歳で没しました

* * * * * * *

なぜ荷風は、その蔵書を疎開(田舎へ避難)させなかったのか?

この理由を知りたくて、今回かなり強い関心をもって日記を読んだのですが、明確な説明はありませんでした

周囲の作家たちが次々にその蔵書を疎開させていることは、荷風の日記からもうかがわれますから、空襲で自宅「偏奇館」が焼ける危険性は荷風も十分に認識していたはずです

ただ、偏奇館が炎上焼失したあと、無一物になってセイセイしたようなことも日記に書いていますから、単なる強がりではなく、本当にわざと疎開させなかった可能性も完全には否定できません

変人と言われた人ですから、その深層心理の底にどのような思惑がうごめいていたかは、余人には知りがたいところです

書斎と蔵書を失った後の荷風は、執筆活動が停滞します

高齢で執筆がメンドウになったのか、書斎と蔵書を失って創作意欲が低下したのか、あるいは終戦前後の社会混乱で出版社の活動が停滞したせいか?

それでも断腸亭日乗だけは、毎日欠かさず書き続けます

断腸亭日乗の年齢別ページ数へ

 

断腸亭日乗を読む(1)

前回、永井荷風の偏奇館について書いたので、引き続き永井荷風について書くことにします

前回もかなり引用しましたが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)は、モンテーニュ(→)の「エセー」と並ぶ私の座右の書、枕頭の書で、眠りにつく前などに時々読んでいます

荷風は大正6年(1917年)9月16日、荷風数え39歳(満37歳)のときに一念発起して日記を書き始め、数え81歳(満79歳)で亡くなる前日まで40年間以上、日記を書き続けました

モンテーニュは「エセー」を39歳で書き始め、死ぬまで改訂を続けましたから、よく似ています

モンテーニュは田舎の富裕な貴族、荷風はお金持ちのボンボンで、経済的な立場も似ています

荷風は20世紀の激動の時代に、自分と日本社会を冷静な目で見つめて、日記(断腸亭日乗)に書き残しました

モンテーニュも16世紀の宗教戦争という激動の時代に、自分とフランス社会を冷静な目で見つめて、随筆(エセー)に書き残しました

日記というものは普通、他人に見せないものですが、荷風はのちに見られる(読まれる)ことをかなり意識して書いているようです

もともと戦前から超人気作家だった荷風の日記ですから、生前から一部が初期の荷風全集に入ったり、抄録が岩波文庫に入ったりして、今では日本を代表する日記文学となっています

「断腸」とは、荷風が腸に持病を持っていたことに由来します

実際、日記の中には頭痛と並んで腹痛で苦しむ記述が多くあり、常に医者通いをして荷風を悩ませています

そして最期は、胃潰瘍によって引き起こされた吐血による窒息が死因となり、79歳で亡くなります

まあ、50歳を過ぎたら老人と呼ばれていたころの79歳ですから、かなり長生きした方かもしれません

また、園芸用の植物である断腸花が庭に咲いていたことに関係あるような記述も見られます

「断腸亭」とは、荷風が大正9年に麻布の偏奇館に引っ越すまで、両親弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現、東京都新宿区余丁町)の家の一隅にあった書斎のことです

つまり荷風は、断腸亭という書斎があった実家から、麻布の偏奇館に引っ越して一人暮らしを始めた訳ですが、日記の名前は引き続き「断腸亭日乗」を用いました

▲書斎(断腸亭?)の荷風

大正6年とあり、断腸亭日乗を書き始めたころ、荷風が満37歳くらいで、慶應義塾大学文学部の教授を辞めた直後です

教授辞職の理由は「三田文学」運営方針の対立ということになってますが、荷風の女遊びに陰口を言う別な教授もいたようで、自由人の荷風は大学組織に居心地の悪さを感じていたのかもしれません

上の写真はおそらく、実家にあった「断腸亭」という書斎かと思われます

イスが多いので、書斎周辺のテーブルかもしれませんね

いかにも「お金持ちのボンボン」といった感じで、37歳の荷風がぼんやり座っています

テーブルの上の書類の置き方を見ても、几帳面な人だなぁという印象

几帳面じゃなきゃ、日記を40年も続けないでしょうけど

この翌年(1918年)、麻布に偏奇館を建てて移り住み、完全に自由な作家生活を始めます

 

* * * * * * *

 

私は最近、昭和史に興味が出て来て、その関連の本をぼちぼち読み始めています

私の自分自身の記憶は、日本が高度成長によって、平和で自由で豊かな社会になってからのものばかりです

高度成長期より前の時代は、正直どんな雰囲気の時代だったのかよく分からないのですが、戦争や貧困や不自由が当たり前の暗い時代だったというイメージです

昭和になる直前に起きた関東大震災、そして世界大恐慌、日本の大陸進出と太平洋戦争、さらに戦後の混乱など、当時の日本人にとっても世界史的なレベルでも大変な時代、激動の時代だったはずです

現代史の本などを読むと、主に政治史として書かれているために、満州事変、二二六事件、真珠湾攻撃などが大きく扱われる訳ですが、その背後で普通の日本人がどのような毎日を過ごしていたのか、当時の世情はどんな事件に注目していたのかなどに私の興味があります

これらについて、私が大好きな作家の松本清張や永井荷風、時には林芙美子など読みながら、昭和の前半という激動の時代を生きた日本人の当時の気分を追体験したいと思っている訳です

この三人の中で、永井荷風はお金持ちのボンボンで、残りの二人とは大きく違っています

現在の日本とは比較にならない大きな貧富の格差があった時代ですから、経済的に社会を上から見た荷風と下から見た二人は、当時の社会の実相を知る上で有益です

政治の実態を知りたければ、右(例えば産経新聞)と左(例えば赤旗)の両方を読むといいなどと言われますが、経済の実態を知りたければ、その右左を上下に変えればいいと考えました

私が荷風に心ひかれるのは、彼がトコトン「好きなように生きた人」だからかもしれません

実際、彼にはそれを可能にする経済力や文学的才能がありました

人がその人生を生きる上で、何を主たる基準にしているかを大ざっぱに分けると

A)為すべきことをして生きる人(立志の人)

B)好きなように生きる人(我欲の人)

C)他人の目を気にして生きる人(世間の人)

などがいると思います

表だってABCのどれで生きたいかと問えば、多くの人がAやBを選ぶと思いますが、実際の生き様を見ていると、Cを主な基準にして生きている人(世間の人)が非常に多いのが日本人の実態ではないかという気がします

これは悪いことばかりではありません

最近増えているインバウンドの外国人観光客が、日本の治安の良さや街の清潔さに感動しているようですが、その背景には日本人のCの生き方が大きく影響しているのではないかと思います

ちなみにAの生き方(立志の人)は、人生に志(こころざし)という大目標を持つという生き方で、吉田松陰のような偉人の生き方がその典型です

イデオロギー的な生き方なので、大変な行動力を発揮して社会を変革したりもしますが、時には「正義の人」となって自らの正しさを過信して判断力を失い、テロリストのような過激な行動を起こす危険人物になったりもします

これ(立志の人)は、どちらかと言えば発展途上国的な生き方かもしれません

退廃的な生き方(立志の人とは正反対の生き方)は、フランスのような文化が爛熟した先進国でのみ可能だと荷風も言っています

日本も発展途上国だった明治の初めには、福沢諭吉の「学問のすすめ」「西国立志編」などに刺激された「立志の人」が世間にウジャウジャいて、「末は博士か大臣か」などと立身出世を目指していた訳です

やがて日本が富国強兵で日露戦争にも勝ち、当時の先進国の仲間入りをし、世の中にも余裕が出来てきたころ、立志の人が減り、大正ロマンの退廃的な花が咲いて文化爛熟の時期を迎えた訳です

しかしこの花も、世界大恐慌という大波にさらわれて、激動の昭和へ突入していきます

その大波の下で当時の日本人は、毎日をどのように生きていたか、それを断腸亭日乗は生き生きと記録しています

その土地によって、立志の人が多い場所というのがあります

日本で言えば茨城県の水戸やその周辺がそうで、徳川光圀(黄門さま)が創始した水戸学というイデオロギーで過激な行動(桜田門外の変など)を起こしがちで、最後は藩内紛争が泥沼化した末に天狗党の乱などを起こして悲惨な最期を迎えており、立志の人(正義の人)の危険性を実証しています

海外から見れば日本という国は、やや水戸のような気風があり、真珠湾攻撃のような過激な行動を起こしがちと見られていたような気もします

戦後は大人しくして諸外国から信用を得ており、喜ばしい限りです

私は明治の人間ではありませんし、余り志(こころざし)とか持つタイプではないので、文化が爛熟した日本という先進文明国に生まれたことを幸いに、なるべく好きなように生きたいと思っているのですが、平凡な人間なので他人の目も気になってしまうというのが現実です

それで、他人の目など気にせず好きなように生きたお手本として、永井荷風に注目している訳です

実際、私は永井荷風を尊敬もしていませんし、立派な人物だとも思っていません(もちろん軽蔑もしていませんが)

私は彼のようなお金持ちのボンボンでもないし、彼のような文学的才能も無く、彼のような変態(異常性欲)でもありませんが、ただ彼のライフスタイル、「好きなように生きる」というスタンスに心ひかれているだけです

「好きなように生きる」というのは、言うのは簡単ですが、本気で実行しようとすると世間との軋轢(あつれき)など想定外の困難に直面して周囲から変人扱いされ、よほど強い意志がないと継続が難しい生き方のようです

断腸亭日乗を読んでいると、好きなように生きようとする荷風が、いろいろな困難(世間との軋轢など)に直面して、それにどう対処したかが具体的に描かれていて、それが非常に面白いのです

これはあくまでも一般論ですが、他人観察が好きな多数派C(世間の人)が少数派B(我欲の人)を見ると、社会適応していない「子ども」のように見えることでしょう

少数派B(我欲の人)にとって、社会適応すること(多数派に合わせること)の優先順位が低いのですから、そうなるのは当然と言えます

世の中には、好きなように生きたいのではなく、単に愚鈍なために社会適応できない人もいますから、これと混同視されることは避けられないでしょう

逆に少数派B(我欲の人)が多数派C(世間の人)をたまに観察することがあれば、他人に合わせるだけの思考停止した「馬鹿」のように見えることもあろうかと思われます

そしてBもCも、A(立志の人)を見ると「偉人」あるいは「狂人」に見え、逆にAは自己の志(こころざし)に目が集中していますから、同じようなAタイプ(同志や敵)は別として、その他おおぜい(BやC)に対しては余り関心が無いかもしれません

以上は分かり易く単純化したものであって、現実の人間はこれらタイプの組合せで、しかもABC以外の要素DEF・・・も含むことでしょうから複雑です

人間タイプ分けはこれくらいにして、荷風は有名な「歩くの大好き」人間なので、東京を毎日のようにあちこち歩き回り、その描写も断腸亭日乗には豊富です

当時の東京(あるいはまだ残存していた江戸)の時代性が感じられて非常に面白い

文豪と言われた人ですから、その文章は風景描写の妙を極めており、いま東京を歩くときにその文章を思い出すことで、散歩の楽しみが倍加します

そんな訳で、これで何回目か、今また断腸亭日乗を最初から読み始めています

断腸亭日乗は荷風全集全30巻の内の6巻(21~26巻)を占めており、荷風全集は1巻あたり500~600ページくらいで、全3000ページ以上ですから読み応えがあります

日記ではありますが、分量で言えば荷風最大の文学作品とも言えます

岩波文庫から要約版(摘録)上下2巻(計900ページ程度)が出ていて、私も最初(全集を買う前)はこれを読みました

今回は、大正6年の書き始めから大正末年まで、やや読み飛ばしながら進み、昨日は昭和2年を読みました

昭和元年は大正天皇の崩御が年末だったので1週間しかなく、昭和史は実質、昭和2年から始まります

そして今日は、昭和3年をいま(6/2)読み終えたところ

このとき荷風は数え50歳(満48歳)で、今風に考えればまだ若いのですが、頭痛、腹痛、歯痛など常に健康上の危機に遭遇して、毎日のように医者通い

このころの日本人の平均寿命は50歳くらいだったはずですから、周囲からも老人扱いされがち

かなり参っていて、日記の中で「せめてあと1年生きたい」などと弱気なことを言っています

それでも医者通いのあと、銀座のカフェー(現在の高級クラブ)「タイガー」には毎晩のように通い、20歳少々の愛人(おめかけさん)であるお歌さんのいる妾宅(しょうたく)「壺中庵(こちゅうあん)」にはしょっちゅういりびたる毎日を過ごしています

荷風の著作が「円本」という当時のベストセラー出版で爆発的に売れ、そのおかげで相当な金額の印税を荷風が得たと世に報ぜられるや、それを目当てに共産主義者を自称する乞食が毎日のように自宅(偏奇館)にやってきて、金を貸せとか寄付をしろなどと暴力的なユスリタカリをする

それがイヤで自宅(偏奇館)を留守がちにして、妾宅「壺中庵」に入り浸り、50歳でもうすぐ死ぬようなことを言いながら退廃的に暮らしています

実際はこのあと元気を回復し、戦争や空襲にも生き延び、79歳まで生きましたけどね

これから毎日1年分ずつくらい、今月中じっくり楽しもうと思っています

▲荷風とお歌さん(おめかけさん関根歌)

上の写真は、このころお歌さんと撮った写真です

たぶんどこかの写真館で撮ったのか、二人ともしっかりおめかししていますね

お歌さんは20歳くらいまで「寿々竜」という名で麹町の芸者をしていたので、着物もキリッとしていて粋な感じです

荷風はお歌さんを非常に気に入っていて、日記の中で激賞しています

人の好き嫌いが激しく、日記の中で他人への罵詈雑言を並べている荷風にしては非常に珍しいことで、28歳も歳下のお歌さんを、恋人でしかも娘のように思っていたのかもしれません

実はお歌さんは、まだ20歳を過ぎたばかりですが、荷風が思っているほど純朴な人ではなく、なかなか商才もあり(このあと荷風に出資してもらって待合茶屋の経営を始めている)、荷風を手のひらに乗せて上手に利用しているようなしたたかな側面もあります

恋の結晶作用で盲目になった荷風は気がつかなかったのか、あるいは気がつかないフリをしていたのか?

上の写真を見ても、なかなか理知的な美人で、今ならキャリアウーマンや女性起業家などしても似合いそうな感じ

下の写真もお歌さんらしいのですが、ヘアスタイルが違うとまるで別人のようです

断腸亭日乗に登場するお歌さんは、下の写真のイメージです

妾宅「壺中庵」(お歌の家、芝区西久保八幡町、現在の港区虎ノ門五丁目)か、または荷風が出資しお歌さんが経営した待合茶屋(千代田区三番町、麹町の近く)での写真かと思われます

荷風はこの部屋のこたつにもぐって寝転び、お歌さんに肩をもんでもらったりしながら、日がな一日、のんびり退廃的に過ごしていたのかもしれません

荷風とお歌さんは、やがておめかけさん関係を解消しますが、その後も友人としての関係は続き、荷風が亡くなる直前までお歌さんは時々荷風を訪ねて旧交を温めています

荷風には少なくとも16人の愛人(おめかけさん)がいたと本人が日記に書いていますが、お歌さんはその中で最も長く関係が続きました

お歌さんには「日蔭の女の五年間」という、荷風のおめかけさん時代の回想記があり、

「夜の時間を、先生は昔ばなしを私にきかせてくださるのでした。アメリカやフランスに行かれた時のこと、交渉のあった女のひとのおのろけ話で夜をふかしました。また芸者や女給さんたちの色っぽい噂話がたいへんお好きでした」

と書いています

(^_^;)~♪

 

▼荷風のお歌さんに対する評価

「断腸亭日乗」昭和3年2月  「荷風全集」第22巻

断腸亭日乗を読む(2)へ