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朝の散歩と薩摩藩邸焼き討ち事件

私はいま品川駅の近くに住んでいて、このごろ自宅周辺の朝散歩が習慣化しつつある(犬は飼っていない)

山手線の内側(高輪、芝など)を歩くと、幕末の史跡が多いことに気付く

この辺にはかつて薩摩藩の江戸屋敷がいくつもあって、薩摩藩は倒幕派の最大勢力だったから、ここはまさに幕末騒乱の最前線だった

そんなある日、上のようなパンフレットを見つけ、応募したら当選して、昨夜お話を聴いてきました

講師は歴史好きが高じて、サラリーマンを定年退職後に大学教授になった人

世の中には歴史オタクみたいな人がいて、下手な学者より知識も豊富で、自分の著書も出したりしている

講演会の会場は、田町駅の近くにある伝統文化交流館という区の施設

 

▲周辺はオフィスビルや高層マンション街で、ここだけ異様な空間

ここはかつて芝浦花柳界の見番(けんばん)として建設された、都内に現存する最古級の木造見番建造物

見番とは、置屋、料亭、待合からなる「三業」を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設で「協業会館」と呼ばれていた

東京にはかつて高級料亭が並ぶ花街があちこちにあって、その代表が東京六花街と呼ばれた

柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、芳町(現在の人形町)

芝浦にも、それらに次ぐ花街があったようです

館内には舞台のある大広間があって、そこが講演会の会場

ここの最盛期は昭和10年代で、当時この大広間で多くの宴会が開かれ、たくさんの芸者さんたちが舞台の上で踊りを披露したり活躍していたはず

この建物(伝統文化交流館)は、第二次大戦の空襲でも焼けず、バブル時代の地上げでも取り壊されず、奇跡的に生き残った木造建築で、最近になって歴史的価値を感じた区が改修して展示施設にしました

講演会は定員50人で募集していて、100人以上が応募して、たまたま私は当たった

かつての見番の大広間に、歴史好きが50人ほど集まった訳です

さすがに平均年齢は高かったですが、意外に女性が多く(3割くらい)、私が思っていたよりも歴史ファンに女性は多いんだなと感じました

ここは女性(芸者さん)の職場だったから、近代女性史の研究家とかが来ていたのかもしれませんし、講師が自分の知り合いを呼んだ可能性もありますけどね

 

▲幕末の三田・田町付近(上が北になるように回転させた)

明治になって海に土台(築堤)を築いて鉄道線路を作ったが

駅(田町駅)だけは、薩摩藩の蔵屋敷跡の上に作ったんですね

蔵屋敷の凹みは船着き場かな?

▼現在の三田・田町付近、主な道路は昔のままですね

 

この日のテーマ「薩摩藩邸焼き討ち事件」というのは、幕末の慶応3年12月25日(旧暦)に三田の薩摩藩邸(三田屋敷)で起きた事件で、場所は現在のNEC本社あたり

まさにそこから歩いて10分くらいの場所で、昨夜の講演会があった訳です

薩摩藩は超巨大な藩だったので、これ以外にも広大な高輪屋敷、白金と渋谷に下屋敷、さらに芝浦の海岸に蔵屋敷など、江戸市中にいくつもの藩邸(大名屋敷)を持っていた

高輪屋敷の跡が現在の高輪プリンスホテルで、蔵屋敷跡は現在の田町駅

この蔵屋敷で勝海舟と西郷隆盛が江戸無血開城の談判をしており、現在の田町駅にはそのレリーフが飾られている

当時の日本にはクリスマスを祝う習慣はまだ無かったから、12月25日は単なる年末

焼き討ち事件の当日(旧暦12/25)は新暦1月19日に当たり、この年の秋に改元されて明治元年になっている

だから、まさに明治になる直前(数か月前)に勃発した事件

「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、出来たばかりの明治新政府と260年続いた旧徳川幕府側勢力が戦った戦争(戊辰戦争)のきっかけになった事件とされています

講師の町田さんという人は、

これを「事件」と呼ぶのはケシカラン!

戦争」と呼ぶべき大事件なんだ!

と力説しており、将来の中学校や高校の歴史の教科書には「薩摩藩邸焼き討ち事件」ではなく「三田品川戦争」と記載されるべきだと主張していました

一般に専門家は、自分の専門領域が世間から過小評価されていると思いがちなので、その気持ちは分かる

まあこれは「戦争」という言葉の定義次第なので、事件でも戦争でも私にはどうでもよかったんですが、単なる小競り合いと呼ぶには少々規模の大きな争乱で、時間はわずか1日ですが何十人も戦死しているのは事実だったようです

三田屋敷にこもって江戸市中で乱暴狼藉をしている浪士(徳川方から見たらテロリスト)約200人を引き渡せという交渉が朝7時から3時間も続いたが決裂

戦闘は交渉決裂直後の朝10時ころから始まって午後4時に終わり、三田屋敷は翌朝まで燃え続けた

一番上の講演会チラシにある錦絵が、そのときの三田屋敷の門前を描いており、すでに炎と煙が出ている

このとき薩摩方の交渉役だった三田屋敷の責任者は、交渉決裂直後に槍で突き刺されて即死しています

三田屋敷を取り囲んでいた旧幕府軍(主力は庄内藩)は約1000人で戦闘準備を整えており、包囲する側とされる側には圧倒的な戦力差があった

薩摩藩邸にこもっていた浪士(徳川方から見たらテロリスト)の多くが殺されたり捕まったりしたが、一部の残党が品川方面に逃げ出した

「窮鼠猫をかむ」にならないよう、包囲する側が包囲の一部をゆるめていたので、そこから逃げた

品川沖に薩摩藩の船が停泊していたので、それに乗って上方(関西)方面へ逃げようという考えで、品川へ向かった

当時、江戸から上方まで歩いて15日だが、船なら風に乗れば2日で、鉄道も自動車も無い時代に最も速い移動手段は船だった

この逃げる薩摩船の近くに幕府の軍艦がいて、品川沖で大砲を撃ち合いながら海戦をしており、講師の町田さんは「事件ではなく戦争」の根拠の一つとしています

薩摩船は激しく被弾して残党は「もうこれまで」と覚悟したが、何とか沈没を免れ、品川沖から脱出しました

三田から品川まで逃げるときに

追っ手を防ぐため、途中の民家に放火しながら逃げた

ので、三田から品川にかけて民家の多くが燃えて焼け野原のようになったそうです(これも「事件ではなく戦争」の根拠の一つ)

官軍と彰義隊が上野の山で戦った有名な「上野戦争」は、同じく1日(朝7時~午後5時)で戦死者300人ですから、これを戦争と呼ぶなら薩摩藩邸焼き討ち事件を「三田品川戦争」と呼んでもいいような気もします

ちなみに戊辰戦争全体では、8000人以上が戦死しています

さらに明治10年の西南戦争では、13000人以上が戦死

この幕末明治期の2つの内戦で、2万人以上が亡くなっている

同時期に起きた米国の内戦(南北戦争)では数十万人が戦死していますから、

戊辰戦争や西南戦争は、内戦として国際比較すると、かなり戦死者数が少ない

ことになります(むしろ米国の南北戦争が多すぎると言うべきか)

これはおそらく産業革命の浸透度の違いで、南北戦争当時の米国では産業革命による近代兵器が戦場に十分に行き渡っていたのに対して、同時期の日本の戊辰戦争や西南戦争には近代兵器がそれよりはるかに少なかった

日本刀で戦っている人も多かったが、日本刀は実用性が低くて戦国時代ですら余り使われず、戦国武器の主力は槍(やり)、弓矢、鉄砲、投石だったから、260年の天下太平による平和ボケかもしれない

すでに日本刀は骨董品や工芸作品(芸術品)として床の間の飾りになっていたが、それを引っ張り出して戦争をしていた

産業革命による科学技術の進歩で、近代兵器の人間に対する殺傷能力が飛躍的に高まった

それ対して、人間の肉体の持つ根源的な生命維持能力はほとんど何も変わらない訳だから、人間は近代兵器で簡単に殺されてしまう(現在のウクライナやガザと同じ)

その後の世界大戦では、米国南北戦争の100倍、数千万人が死んでいます

次の世界大戦(それは今年中かもしれない)で全面核戦争になれば、数億人~数十億人が死に、人類は絶滅に瀕します

最後の将軍となった徳川慶喜は、焼き討ち事件が起きる直前(約2か月前)に大政奉還をしました

そして天皇を中心とする新国家を作り、それを運営する合議体(新政府の最高意思決定機関)の主要メンバーに徳川慶喜も加わる気運が高まっていました

これが徳川慶喜の狙いで、「大政」という名を捨てて「合議体のリーダーシップ」という実(実権)をとる戦略

幕末時点でも、徳川家の領地は全国の約3割あったから、十分にリーダーシップがとれると踏んでいた

それが、この事件がきっかけで戊辰戦争が起き、旧徳川方は天皇に刃向かう「賊軍」となって転落し、明治新政府の主要メンバーから旧徳川勢力はほぼ一掃された訳です

これはまさに、薩摩の大久保利通や西郷隆盛の狙っていた路線

薩摩藩邸焼き討ち事件の発生を知った西郷が思わずほくそ笑んだとか、すべてを背後で仕組んだのが西郷だとする説が定説のように流布していますが、これはやや怪しい

そもそもこの後に続く戊辰戦争で官軍(薩長方は勝ったから官軍になった)が勝つ保証は何もなく、当時の軍事力では旧徳川方が圧倒的に優勢だった

大久保や西郷も、この時点で徳川方に武力で勝てるとは思っていなかった

もし旧徳川方が勝っていれば、薩摩や長州が賊軍になっていた

そうなれば、新政府で最大の影響力を持つのは徳川慶喜だったでしょうから、明治以降の日本現代史はかなり様相が違っていたはず

もし「すべてを背後で仕組んだ者」がいたとしたら、それは薩摩藩の西郷ではなく、土佐藩の板垣退助だったと思われます

板垣退助は明治になって自由民権運動を推進し、

「板垣死すとも自由は死せず」

の名言でも有名ですから、何となく平和主義者のようなイメージがありますが、幕末の板垣退助はテロリストと言っても過言ではない超過激派だった

まあ人間というのは、若いころは超過激派でも、歳をとると丸くなるというのはよくあること(板垣が丸くなったかどうか知らんけど)

つい先日、永年全国指名手配されていた元テロリストが半世紀ぶりに逮捕されましたね

しょぼくれた詰まらないジジイになっていて拍子抜けしました

ちなみに板垣退助のお墓は品川駅の近くにあり、先日の朝散歩で偶然に見つけました

徳川慶喜はおフランスびいきの洗練されたお坊ちゃま都会人だったから、

薩長新政府の田舎臭さとドイツびいき

とは違った雰囲気の新政府になっていたと思います

おフランス風の都会的でオシャレな新政府

になったかどうかは知りませんけど、欧州戦争での

おフランス軍の救いようのない弱さ

を考えると、徳川方が負けて良かったのかもしれません

明治になって帝国陸軍が編成されましたが、東京とか関西など都会出身者で編成した軍隊(聯隊)は士気が低く弱いことで有名で、強いのは九州とか東北だった

便利な生活に慣れた都会人は、戦争には向いてないんですね

戊辰戦争でも主力となって戦ったのは、官軍が九州勢、旧幕府軍が東北勢でした

今や全国的に便利な都会生活に慣れた現代日本人は大丈夫かな?

兵器の性能と品質(信頼性)、それに兵器操作能力が重要な現代戦では、士気の重要性は低下しているそうですから、それに期待したいと思っています

徳川慶喜は非常に頭の良い男だったようで、政治の駆け引きや外交交渉は上手にこなすんですけど、とにかく戦争は下手だった!

戦争が下手なら、戦争が上手な部下に任せればいいんですけど、頭がいい人というのは他人任せにできず、何でも自分がやろうとしがち

個人としては優秀だけど権限委譲の出来ない上司(つまり管理者としては問題あり)という人は、今でもよくいますよね

とにかく、戦争というのは頭の良さだけではダメで、勇気(度胸)が必要みたいです

ボンボン育ちの慶喜にはそれが欠けていて、大久保利通や西郷隆盛にはそれがあった!

徳川慶喜は、明治以降は賊軍としての汚名を着せられ、ひっそりと社会の片隅で趣味の世界に生き、大正2年(1913年)に76歳で亡くなっています

大久保や西郷は、その後の暗殺や戦死で40歳代で亡くなっており、それよりずっと長生きしました

徳川慶喜はケタ外れの趣味人で、銃猟・鷹狩り・囲碁・将棋・投網・鵜飼 ・謡(うたい)・能・小鼓・カメラ・洋画 ・刺繍・ウナギ釣り・湯治 ・花見・釣り・書道・弓・ビリヤードなどに親しんだ

さらに子づくりにも励んで、21人の子どもをつくり、宗家分家が栄えている

徳川宗家の現当主、徳川家広氏は19代目(慶喜は15代目将軍)

広い家にお住まいなのかしら?

(2LDKとかにお住まいなら超ウケるんですけど)

評論家や翻訳家をしていて、そこそこ有名人

昨年秋の藩校サミットにも登場してました

この人、何となく徳川家康の肖像画に似てます

初代と19代目だからかなり離れてますが、血はつながってるので不思議ではない(途中の15代目の慶喜には似てないけど)

法事が年に20〜30回もあるそうで、名家の跡取りというのも大変のようです

徳川家康の法事とか、いまでもやってるのかな?

(^_^;)

 

▲徳川家康

 

▲田町駅の近くにある伝統文化交流館

2階の大広間に明かりが灯っていて、そこが講演会の会場

昔はここで、芸者をあげてどんちゃん騒ぎ?

 

ヤマザキ春のパン祭りが、危機なんよ~♪

中東イエメンにフーシ派という、イスラム過激派の武装集団がいる

物流の大動脈「紅海」で大暴れして、貨物船がスエズ運河が通れなくなり、世界の海運物流に大打撃

スエズ運河を経由できないと、アフリカ大陸を回る喜望峰ルートになるので、物流に要する時間やコストがはね上がる

コンテナ運賃は、前月比3倍に跳ね上がっている

神田祭り祇園祭りと並ぶ日本三大祭りの一つ

ヤマザキ春のパン祭り

がもうすぐ始まるのだが、これに大きな影響が出ている

山崎パンに付いている応募シールを集めて送ると、景品の白いお皿がもらえるキャンペーン

フランス製のお皿を積んだ貨物船が、スエズ運河を通れずに入荷が遅れている

ヤマザキ春のパン祭りのお皿が届かないと、日本の春の訪れには大打撃だ!

((((;゚д゚))))

 

 

映画「残菊物語」 歌舞伎界のボンボンの転落悲恋ストーリー

溝口健二監督作品「残菊物語」、1939年(昭和14年)公開

古い映画なので画質音質は劣悪だが、思わず引き込まれる

歌舞伎界名門のボンボン、二代目尾上菊之助(花柳章太郎)と、それを支える健気な恋女房(森赫子)という、身分違いの恋を描くロミジュリ物語

歌舞伎界は今でも家柄がものを言うほど超保守的だが、映画の時代背景は封建主義ガチガチ、親の許さぬ恋愛など犯罪と同列に見られていたころで

「親がいけねぇって言ったら、いけねぇんだ!」

という江戸っ子風のセリフに全てが集約されている

それでも反対されればされるほど、恋の炎は燃え上がる

親(先代)に楯突いて東京の歌舞伎界から追放されたボンボンは、関西歌舞伎、さらにドサ回りの旅芸人一座に加わり、恋女房と一緒に泊まる今晩の宿にも困るほど経済的に窮迫する

大部屋に雑魚寝(ざこね)という超安宿に泊まり、一晩1円80銭で貸し布団を借りる場面は究極のリアリズム

世間知らずの金持ちのボンボン(若旦那)が、芸者や身分の低い女にホレて親に勘当され、浮き世の冷や水を浴びて苦労するという話は、昔から貧しい庶民に非常に好まれた

江戸時代の落語などにも似たような話が多い

本人のボンボン(若旦那)には、生まれて初めて味わう貧しい暮らしが貴重な人生経験になり、歌舞伎役者だからまさに「芸の肥やし」になりそう

物語の時代背景は、明治時代半ばくらいだろうか?

すでに鉄道や電灯もあるのだが、庶民の暮らしや風俗は、今から見たら江戸時代そのものといった感じで、私の民俗興味を大いに満たしてくれる

イギリスの鉄道みたいなコンパートメント型の列車が、駅(おそらく当時の新橋駅?)を発車する場面や、歌舞伎の劇場(芝居小屋)の内部構造が、今とは別世界のようで非常に面白い

当時の鉄道とか芝居小屋は、比較的裕福な人たちの世界だと思うが、その周囲にいる庶民の暮らしは非常に貧しく、日常生活では電灯もなく石油ランプを使っている

貧しい美女が玉の輿(たまのこし)などで社会階層を急浮上する話(「マイ・フェア・レディ」など)と、金持ちのボンボン男が社会階層を急転落する話は、どちらも庶民ウケする鉄板のストーリーのようです

上の動画はYoutubeにあったんだけど、もう著作権が切れているのか、全編無料で観れます

映画の中のお座敷で二人の芸者が、転落する前のボンボン(若旦那)の取り合い口論をする場面があります

そこで「柳橋」(やなぎばし)という地名が出る

一人の芸者が、着物の端を少しめくって二の腕を見せるのですが、この所作にも深い意味があります

東京にはかつて高級料亭が並ぶ花街があちこちにあって、その代表が

東京六花街:柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、芳町(現在の人形町)

今でも柳橋以外には、それらしき雰囲気が少し残っていますね

今なら、銀座のクラブ街、六本木や新宿のキャバクラ街でしょうか

東京六花街の最高峰が「柳新二橋」と呼ばれていた柳橋と新橋で、しかも柳橋の芸者の方が格が上だったそうです

その柳橋の花街は衰退を続けて、最後の高級料亭が今から20年くらい前に廃業、風と共に消えていった花街文化

今では東京の下町によくある、ごく普通の静かな街並みになっています

人間と同様に街にも浮き沈みがあって、何やら栄枯盛衰の悲哀を感じます

(^_^;)

 

 

映画 アニーホール

▲アニーホール

今日は午後から東京にも雪が降り出して、寒いので外出せず、部屋にこもって映画を2本観ました

1本目は、ウディアレンの「アニーホール、映画史に残る名作

1977年だから、ほぼ半世紀前の映画で、観るのは数回目

ウディアレンが監督と主演で、彼の最高傑作と言われている

フロイトや左翼思想、マクルーハンがもてはやされていた当時の時代性を強烈に感じるけど、それを超えた永遠の魅力がある

まだ米国に深刻な移民問題とか無くて、NYに落ち着いた都会生活があり、その中でのインテリ男女の大人の恋愛関係をホンワカと描く

ナーバスなインテリ特有の不安やイライラが、ユーモラスに伝わってくる

フロイトがらみで、子どものころの思い出シーンもある

役を演じながら観客に話しかけたり、ポールサイモンやマクルーハン本人が登場したり、ホンネとタテマエの2種類の字幕も面白い

アニーホール役のダイアンキートンの服装やヘアスタイルが、今見ても古さを感じないのがスゴい

ウディアレンは今88歳だけど、ごく最近まで女優と恋愛ネタでニュースになっていたほど女性関係がずっと派手(あの頭髪を見れば何となく分かるが)

2本目は、グッド・ウィル・ハンティング、駄作だった

生育環境が悪くてグレてる天才、という設定にひかれて観た

MIT(米国の超一流大学)の数学科授業で超難問の課題が出るが、学生は誰も証明出来ず、大学で掃除夫をしている若者(学生ではない)がサラッと証明してしまうところから話が始まる

この若者は、悪友とつるんでケンカばかりしているが、フィールズ賞(数学界のノーベル賞)を受賞した数学者(MITの教授)が嫉妬するほどの超天才だった

モーツアルトとサリエリの関係を連想する

確かに、数学とか芸術の超天才には、それ以外の日常生活能力は幼児並みという人もいる

その超天才っぷりが見れるのかと思ったら、期待はずれの安っぽいお涙頂戴ドラマになっていってガッカリ

最後は、カリフォルニアへ引っ越す平凡な女子学生を追って天才を発揮できる就職を蹴るとか、まるで意味不明の展開

天才を扱った映画なら、チューリングを扱った「イミテーション・ゲーム」が秀逸

(^_^;)

 

米国で素数ゼミ大発生 221年ぶり1兆匹

 

今年2024年の初夏、米国に「素数ゼミ」が1兆匹も大発生するらしい

米国には、大発生の周期が17年と13年の、2種類の素数ゼミがいる

周期ゼミとも呼ばれるが、17と13が素数なので、素数ゼミと呼ばれている

この2種類の周期ゼミの大発生が重なると「世紀の大発生」になり、今年がその当たり年で、221年ぶりだそうです

日本人は虫の出す音を右脳で「心地良い音色」として聴いているが、一般に白人は左脳で「単なる雑音」として聴いているらしい

それにしても1兆匹というのは半端ないし、どれくらいウルサイのか?

バッタの大発生をイメージすると、農業や気象への影響はどうなのだろう?

ここはひとつ、虫を「珍味珍味」と言ってお食べになる中国人の皆さまに輸入していただいて、大量に発生した素数ゼミを食していただいたらどうだろう?

これなら米国も大歓迎で、輸出規制などしないでしょう

(^_^;)

詳細はここをクリック

 

泉谷しげるが松本人志について語る

いま話題の松本人志(60)スキャンダル

歌手、泉谷しげる(75)のコメント:

「俺にとって松本人志はおとこ気のある、本当に面倒見のいい素晴らしい男」

「だから悪くいう気はまったくないんだけど、やっぱ裁判はしないほうがいいんじゃないか」

余計なことまでどんどんバレちゃうし、ご家族のことを考えるとしんどいかな」

「松本人志は尊敬される人間だけど、女にモテるタイプだとは思わない」

「(女性と会う飲み会の場を後輩に)セッティングさせていること自体、モテないと言っているようなものなんだよ」

おとこ気を見せてね。(後輩)みんなは悪くないよってことを言ってほしい」

さすが長老、的確なコメントだと思います

この中で、「おとこ気」という言葉が2回登場してます

男気とか侠気、あるいは漢気とも書き、

「弱い者が苦しんでいるのを見のがせない気性」

などを意味するようです

女気(おんなぎ)という言葉もあって、「しとやかで優しい気持ち」を意味しますが、男気ほどは使われない

裁判になると、勝つか負けるかに注目が集まりますが、

日本の民事裁判は、勝っても勝ったことにならない

(被害を受けた原告が勝っても、被害が十分に救済されない)

ことが多いのです

本式の裁判になると、すごい時間と費用と心理的エネルギーが必要になるが、その割に裁判に勝っても、

裁判で負けた被告へのペナルティが少ない(ゆるい、ぬるい)

のです

訴えられた被告側から言えば、「負けるが勝ち」みたいなところがある

判決でケタ外れの超高額賠償金額が出る米国などとは、法律的な風土がまるで異なり、ぬるま湯のような世界

おまけに、裁判は原則として完全公開なので、泉谷しげるも言ってるけど

「余計なことまでどんどんバレちゃう」

ことも多い

だから世慣れた人は、裁判をちらつかせてカケヒキしながら、示談や話し合いに持ち込んだりする

今回の文春側も、

「裁判で負けても、週刊誌の売上増で、十分に採算が取れる」

と見込んでいる可能性が高い

最初から裁判で負けることを計算に入れたビジネスモデルなのだ

それにしても男と女の話なのに、主人公の松本人志が60歳、コメントした泉谷しげるが75歳

いやぁ~高齢化社会だなぁ~

と感じます

60歳なんて、ちょっと昔なら、赤いチャンチャンコを着て、孫でも抱いてる年ですよ

当時は成功した男が若いオメカケさんを囲うのは「男の甲斐性(かいしょう)」などと言われて、男にとってはラクだったんですけどね

あの聖人君子みたいな松下幸之助(パナソニック創業者で、PHP教の教祖)にもオメカケさんがいたし、みんな囲っていました

そんな場合、男がカネをケチるとトラブルになりやすいんだけど、その辺は昔も今も一緒かな?

(^_^;)

 

お酒や料理に虫が入っていたら

韓国で、未開封の中国製のお酒(高梁酒)の中に、体長2センチほどの大型のハエの死骸が浮いているのが見つかり、韓国人が巨額の賠償金を要求したりして大騒ぎになっている

綺麗好き(きれいずき)なら日本人が間違いなく世界一だが、汚な好き(きたなずき)ならインド人と中国人が常に世界一の座を争っている

綺麗好きと汚な好き、別にどちらがエラいとかではなく、単なるライフスタイルの違いだろう

そんな中国人が作ったお酒なんだから、今さらハエが入っていたくらいで、大騒ぎするほどのことだろうか?、という気もする

虫の入っているお酒や食べ物がイヤなら、中国製食品を買わなければいいだけだ

こんなエスニック・ジョークがある

あるレストランでは、ときどき料理に虫が入っている

日本人客が虫を見つけると、静かに黙って食べるのをやめ、普通にお会計をして店を出る

韓国人客が虫を見つけると、「虫がいた!」と狂ったように大騒ぎをして、しつこく謝罪と賠償を求め続ける

中国人客が虫を見つけると、「珍味珍味!」と言って、そのまま虫も料理も食べてしまう

いかにもありそうな話で面白いが、実は店にとって一番怖いのが日本人客

なぜなら、静かにお会計をして帰った日本人客だが、もう二度とその店には行かない

世界中の一流企業が、最も攻めるのが難しいマーケットとして日本をあげるのは、こんな日本人の国民性があるからだろう

韓国人は、その時は大騒ぎするが、しばらくするとまた店へ行くらしい

つい先日も福島原発の処理水放出について韓国内で反日気運が高まり、日本車やユニクロ、アサヒビールなど日本製品への激しい不買運動が起きた

確かに一時的に日本製品の売り上げは落ちたが、すぐに不買運動の前と同じ水準まで需要が戻ったそうだ

一時的にカッとして大騒ぎしても、すぐに忘れてしまうのが、韓国人の国民性らしい(ただし賠償金は、もらえそうな限り、しつこく請求し続けるようだ)

ジョークをもうひとつ

イギリスの紳士は、自分が開いたパーティーに態度の悪い客がいても、面と向かって注意したりしない

パーティーが終わるまで、その客にも丁重に対応する

ただしその人物には、もう二度と招待状を出さない

イギリス人の階級にもよるだろうが、イギリス人と日本人に、どこか気の合うところがあるのは、こんなところかもしれない

(^_^;)

 

桐島聡 潜伏中の姿と生活

 

 

東アジア反日武装戦線の大量虐殺犯人、桐島聡(70)の、潜伏中の姿や生活が次第に明らかになってきました

上の写真のように顔は激変、これじゃ指名手配の写真で捕まる訳がない

20歳から70歳ですから、普通の人でも顔は変わるでしょうけどね

それより、孤独と貧困の中で暮らした、桐島聡のミジメな逃亡生活が何とも言えない

多数の善良な人たちを虐殺し傷つけているので、同情する気分には全くなれないが、落ちぶれ果てた老テロリスト桐島聡の余りにも哀れな末路

上の動画にも出てくるが、高校時代にはまったく政治色の無かった桐島聡

こうゆう何も知らない純粋無垢で真っ白な奴が、一番洗脳されやすくて(染まりやすくて)危ない!

共産主義(共産教)などカルト宗教の世界では、洗脳する側(利用する側)と洗脳される側(利用される側)がいて、その落差が激しい

日本共産党(共産教の総本山)に君臨した不破哲三(94)は、1000坪もある大豪邸に住んでいる

洗脳する側(利用する側)は悪魔のくせに、王侯貴族のような優雅な生活をする一方で、洗脳される側(利用される側)は全ての財産や自由、人間の尊厳まで奪われて、最後は虫けらのように使い捨てにされる

共産主義独裁国家の北朝鮮では、人民は食うものも無くて大量に餓死しているが、不破哲三のような支配する側の将軍様は、ブクブク太って酒池肉林の毎日

利用され尽くした地下逃亡生活中の桐島聡には、何の援助も無かったそうだ

地上に出て脚光を浴びたらすぐに死ぬ、セミのような人生

共産主義(共産教カルト宗教)に利用され尽くした、まさに虫けらのような桐島聡の人生

(T_T)

 

 

▲桐島聡が暮らしていた場所 ほとんど廃墟かスラム

 

* * * * * * * * * *

 

追伸 桐島聡の親族が、遺体の引き取りを拒否しているそうです

そりゃそーだろねー

善良な市民を大量虐殺したテロリストなんか、関わるのもイヤでしょう

いま考えられるドンデン返しとしては

1)この男が桐島聡ではないことが判明

2)桐島聡の親(100歳くらい?)が生きていて、引き取りたいと言う

3)桐島聡に高額の隠し財産が見つかる

くらいだけど、どれも可能性は非常に低い

桐島聡の指名手配写真に似ているということで、関係ないのに警察の取り調べを受けた人は少なくないと思うんだけど、損害賠償でも請求したい気分でしょう

桐島聡が名乗っていた「内田洋」と同じ名前の人も全国に沢山いそうだけど、きっとイヤな気分だろうなぁ

内田洋行」というオフィス用品なんかを扱っている商社があるけど、そこの社員とか関係者も、いまスゴくイヤな気分だと思う

(;´Д`)

 

城南五山を歩く

 

最近、朝の散歩にハマっている

健康のためというのもあるが、むしろ歩くのが楽しいからやめられなくなった、という感じ

まさに「歩くの大好き」

毎日ではなく、気が向いた日だけ、週に2~3回くらい

いまはまだ寒いが、東京の寒さなんて、ちゃんと防寒すればタカが知れている

短い日で30分くらい、長い日は4時間くらいで、2時間くらいの日が多い

4時間なら16キロくらい歩ける訳だが、帰りもあるので、

家(品川駅の近く)から半径10キロくらい

が私の朝の散歩エリアになっている(実際は5キロくらいが多いけど)

 


▲品川駅から半径10キロ圏内

 

どんどん遠くまで歩いて、帰りは電車やバスで戻る日もある

福沢諭吉は晩年、塾生を連れて毎朝散歩をしていたのだが、それが三田から目黒駅あたりまでで、私の散歩エリアとかなり重なる

何だかちょっぴりウレシイ気分 (^_^;)

山手線の内側には、高プリ(高輪プリンスホテル)やマリオットホテルの日本庭園があるので、自分の家の庭だと思って勝手に散策している

山手線の海側なら、北は芝浦や浜松町、南は天王洲アイル、大井埠頭など

羽田空港の近くまで行って、離着陸する飛行機を眺めたり

レインボーブリッジを歩いて渡って、お台場まで行ったこともあります

 

 

最近気付いたのだが、この山手線内側の高台は、城南五山と呼ばれている

御殿山、八ツ山、島津山、池田山、花房山

JR山手線で品川から目黒まで乗ると、右側にこの五山が並んでいる

山と言っても都内だから高さは知れているが、確かに周囲より高台になっていて、まさに「山の手」だ

どれも現在の住居表示の地名とは異なるので、知る人ぞ知るという感じだが、例えば「八ツ山橋」「御殿山トラストコート」「花房山通り」などのように、橋やマンション、通りの名前で残っていたりする

ちなみに城南というのは、皇居(江戸城)の南側のエリアという意味

都民には常識だが、東京にはおおざっぱに言って、左(西)に山の手、右(東)に下町がある

その山の手もJR中央線あたりを境に上下(南北)で街並みや様相が微妙に異なり、その南側が城南

高台というのはたいてい高級住宅街になっているものだが、この城南五山、まさに豪邸や高級マンションが整然と並んでいて、散歩するには割と快適なエリア

御殿山と八ツ山の間には、三菱財閥岩崎家の高輪別邸だった関東閣もある

上野にある岩崎家旧本邸は、今では誰でもいつでも見学できるが、この関東閣は三菱グループの迎賓館のような使われ方をしているようで、関係者以外は入れない

城南五山筆頭の御殿山は、江戸時代に将軍が鷹狩りなどしたときに立ち寄る休憩所(品川御殿)があったのでこの地名になったという説がある

特に三代将軍、徳川家光は御殿山がダイスキだったようで、18年間に200回以上、つまりほぼ毎月訪れている

明治以降の埋め立てで今は海から遠くなっているが、江戸時代までの御殿山は東京湾に突き出た高台で、遠く房総半島まで眺められた風光明媚な場所

桜の名所だったので、春には江戸市民が大挙して花見に来た

かつては太田道灌が江戸城を築城するまで住んでいた御殿(御殿山城)があったので、こっちが御殿山の語源かもしれない

いずれにしても、太田道灌、徳川家光、岩崎弥太郎と、時の権力者や大富豪のお気に入りだった場所で、今もお金持ちが住んでいる

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