江藤淳「妻と私」 一卵性夫婦

 

このごろ週に1回くらい近所の区立図書館へ行って、開架の中をぶらぶらしたり、検索システムに気になるキーワードを入れて書籍探しなどしています

本の貸出も返却も、昔と違って非常にスピーディで、わずか数秒で済みます

この辺の手続きが煩雑だと、面倒になって図書館から足が遠のくので、重要なことだと思います

それで帰ろうとしたら、図書館の出口に小さな本棚があり、

廃棄図書です。ご自由にお持ちください

という表示と共に、数十冊の本や雑誌が置いてありました

図書館のスペースにも限りがありますから、仕方のないことなのでしょう

何気なく見ると

講談社 現代の文学27 江藤淳

という分厚い1冊が目にとまり、もらって帰りました

江藤淳(えとうじゅん、本名:江頭淳夫、えがしらあつお)さんは、日本を代表する文芸評論家で、私が大学生のころ、私の在学していた大学で一般教養の教授をしておられました

私の出身大学(東工大、10/1から東京科学大学)は、理工系大学なので文学部とか無いのですが、一般教養課程の教授陣に人文系の一流学者をそろえていることで有名でした

江藤さんは中学高校時代から成績抜群でしたが、数学だけは大の苦手だったそうで、そんな江藤さんが一般教養とはいえ理工系大学の教授になったというのも不思議なご縁です

勝海舟「氷川清話」や福沢諭吉「福翁自伝」をテーマにした江頭教授の授業をいくつか選択したおかげで、いまでも私の幕末維新史への興味の原点になっています

ですから私にとって、江藤淳という著者名は非常になつかしく、学生時代の気分に引き戻してくれます

江藤さん自身、皇后陛下雅子さまの親戚にあたり(雅子さまの母が江藤さんのいとこ)、親戚筋に明治以降の近現代史で活躍された方も多いことが、江藤さんの幕末維新史研究の原点になっているのではないかと思います

この親戚筋の中に、水俣病公害企業チッソの元社長・江頭豊(えがしらゆたか)氏が含まれていて、それが雅子さまご成婚の大きな障害になったことは有名な話

それでも現陛下(当時の皇太子殿下)が「雅子さんでなければ!」と強くご希望になり、その困難を乗り越えられたと私は理解しています

もらってきた上記の本の目次をながめると、代表作の一つである「夏目漱石」などいくつかの論文が並んでいて、その冒頭に

成熟と喪失 ”母”の崩壊

という130ページくらいの作品があり、早速目を通しました

母子密着の日本型文化の中では

「母」の崩壊なしに「成熟」はありえない

という主張で、男性原理社会アメリカとの対比において、いくつかの戦後小説など取り上げながら、日本の近代化(西欧化)における微妙な心理的ズレを扱っています

この作品を読んだあと、江藤淳さんが今から四半世紀ほど前に自裁なさったことを思いだしました

「一卵性夫婦」と自称するほど仲の良かった最愛の奥さまにガンで先立たれ、その少し後(8か月後)の自裁で、当時は大ニュースになったのを覚えています

今も続くNHK「クローズアップ現代」でも追悼番組が組まれ、私はそのビデオを録画保管しています

奥さまの体調に変化が生じてから亡くなられるまでの1年余りの闘病記は

江藤淳「妻と私」

として出版され、20万部を超えるベストセラーになったそうです

今回これも読み直してみて、江藤淳さんの人となりが再認識できたような気持ちです

一般に男女の平均寿命の差や結婚時の年齢差があって、夫が先立つケースが圧倒的に多い訳ですが、妻に先立たれた夫が比較的短期間で後を追うのは世間によく見るところです

とくに上記の闘病記を読むと、このご夫婦が

世間でもまれに見る、相互依存の非常に強いご夫婦

だったことが分かります

奥さまとは大学(慶應義塾大学文学部)在学中に知り合い、卒業と同時にご結婚

以来41年間の夫婦生活でした

奥さまも文学ではかなりの才能の持ち主だったのですが、夫の圧倒的な才能に気付き、自分の生涯は夫の才能を最大限に発揮させるために使おう!と強く決心

夫が執筆など文学活動に専念できる完璧な環境を整え、それ以外のすべての用件や雑用は奥さまが処理し続けました

これが結果的に、奥さまに先立たれた後の江藤さんを追い詰めたことは、想像に難くありません

いま私の手元には「江藤淳全集」(全14巻)があるのですが、これに所収の大量の著作は、「一卵性夫婦」の共同作品と言えそうです

今では日本の夫婦の2組に1組は不倫問題をかかえ、それが原因かどうかはともかく、3組に1組はやがて離婚に至るそうですが、その一方でこんな「一卵性夫婦」もいたんだなぁという印象です

江藤さんは体が弱く病気がちだったのに対して、奥さまは長い夫婦生活で病気一つしたことの無い健康体でした

ですから奥さまに先立たれるという事態は、江藤さんにとって青天の霹靂、まったく想定外の大事件だったことと思います

奥さまの闘病中から江藤さん自身の体調も崩れ、葬儀が終わるのを待つように緊急入院

脳梗塞も発病して心身の不自由が残り、退院して鎌倉のご自宅に戻った江藤さんにとって、一人だけの時間は地獄だったようです(お子さんはいなかった)

自裁を決行した日、外は暴風雨の嵐で、気候天候が自殺と強い相関を持つことを裏付けるような結果でした

自裁決行の直前に書き残した文章は、以下の通り

心身の不自由は進み、病苦は耐え難し。

去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。

自ら処決して形骸を断ずる所以なり。

乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。

けいがい【形骸】ぬけがら、むくろ、内容の無い外形だけのもの

・・・・・・・

図書館の廃棄本の棚で偶然に見つけた1冊の本

江藤さんから私への「読み直してごらん」というお誘いだったと受け止めています

(T_T)

 

 

 

東京タワーがグッチ色

高級ブランドの「グッチ」が日本上陸60周年だそうです

60年前の1964年というと、日本の高度経済成長が軌道に乗って、日本人の生活水準が飛躍的に上昇し始めたころで、東京オリンピックが開催されました

そんなジャパンマネーを狙って、抜け目なく上陸して来たんでしょうね

日本はその後バブル崩壊しましたが、すでに豊かな最先進国になっていたので、低成長にはなったけれども高い生活水準と民度を維持し続けてきました

いまお隣の中国では、派手にバブルが破裂しています

日本と違って先進国になる前のバブル崩壊ですから、多くの中国人の生活水準はかなり悲惨な状況になりそうですし、もうすでになっているとも言えます

鄧小平が敷いた経済成長路線を、江沢民と胡錦濤は維持しましたが、習近平が徹底的に破壊した感じです

鄧小平(1978年12月22日 – 1989年11月9日)

江沢民(1989年11月9日 – 2002年11月15日)

胡錦濤(2002年11月15日 – 2012年11月15日)

習近平(2012年11月15日 – 現在)

中国人民にしたらアホな大将、敵より怖いでしょうけど、日本など周辺国にとっては、不気味な共産独裁国家のバブル崩壊は歓迎すべきことかもしれません

あとは、アホな大将が人民の不満のガス抜きとして戦争を始めた場合に対する備えを怠らないことです

平和とは、戦争(侵略)に対する備えをした国民だけが享受できる特権です

少しでも油断すれば、ウクライナのようになります

(^_^;)

詳細はここをクリック

品川駅前にトヨタ本社

▲建設中のトヨタ東京本社(完成予定2029年)

朝散歩で品川駅周辺をよく歩くのですが、広大な敷地(上図の緑色エリア)で大規模な工事が続いています

工事現場を右に見ながら石榴坂(ざくろざか)を上り、高プリの角を左に曲がると、御殿山の高級住宅街になり、なかなか良いお散歩コースです

この工事現場にあった京急のホテル品川グース(旧ホテル・パシフィック)がすでに解体撤去されて、この跡地にトヨタ本社が移転して来るそうです

この場所は、背後の高輪プリンスホテルも含めて、薩摩藩の江戸藩邸(高輪屋敷)があったところです

今から156年前の幕末、慶応 3年( 1868年)には、薩摩藩の江戸藩邸(三田屋敷)襲撃事件があり、この周辺でも「品川戦争」と呼ばれるようなドンパチがありました

▲薩摩藩の江戸藩邸(三田屋敷)襲撃事件

このとき襲撃した幕府軍の主力は庄内藩(現在の山形県鶴岡市)の武士たちで、襲撃された薩摩藩の武士たち(多くは臨時雇いの浪人たち)の一部は三田から品川方面へ逃げ、品川沖(現在の品川駅は、当時海岸だった)に停泊していた薩摩藩の軍艦に乗って関西方面へ向かいました

このあとの戊辰戦争でも薩摩藩と庄内藩は激しく戦ったのですが、賊軍として負けて降伏した庄内藩士を西郷隆盛が丁重に扱ったので庄内藩では西郷に深く感謝し、10年後の西南戦争では多くの旧庄内藩士が西郷軍に応援参加しています

鹿児島には西郷隆盛のお墓がありますが、その周囲には西南戦争で亡くなった旧薩摩藩士などと共に旧庄内藩士のお墓がたくさんあります

鹿児島県と山形県の不思議なつながりです

(^_^;)

詳細(トヨタ発表) 詳細(京急発表)

▲ホテル品川グース(旧ホテル・パシフィック)

▲上から見た工事現場の現状

手前のオレンジ屋根のレストランは

もう営業してないけど、建物はまだ残っていて

工事現場の事務所として使っているみたい

高嶋ちさ子の父 ワープロ専用機を愛用

バイオリニスト高嶋ちさ子さんの実父・高嶋弘之さん(89)は、音楽ディレクター・プロデューサーとして活躍し、かつて1966年にビートルズを初めて日本に呼んだ人

高嶋ちさ子さんはインスタグラムで

「父はいまだにワープロ(専用機)を使ってるという事がわかり驚く私」

「携帯は早いうちからスマホで、LINEもスタンプバンバン使ってるし、iPadで検索とかもしてるから、当然パソコンかと思いきや…」

「なので、原稿は全部他の人が打ち直さなきゃいけないと言う…」

「そりゃ大変だ。ま、お父さんが喋ることを打つ方が大変だけどね」

「という事で、苦労の作品買ってやってください」

と、昨年11月に高嶋弘之さんが出版した著書『笑う老人生活』(幻冬舎)を宣伝した

高嶋弘之さんはワープロの愛機について

「これならしゃべるように書けるんだよ」

と豪語しているが、記録媒体がフロッピーだそうだ

30年くらい前までは「日本語ワープロ専用機」というものが全盛期で、PCのワープロソフトにするか専用機にするか迷った人も多かった

PCを使いこなすにはPCの基本ソフト(当時だとMS-DOSかな?)についての知識が必要なので、それが無くても済む専用機は人気商品だった

価格は同じくらいだから、「いろいろやりたい人」はPCにしたが、専用機は文書作成だけに徹した便利機能もあって、使い慣れると「しゃべるように書ける」ようになって、高嶋弘之さんのように手放せなくなる

現在のPCで使われている普通のキーボードは、英文タイプライター(ABC・・・)が元になっているから、日本語(あいうえお・・・)の入力には余り適しておらず、その辺を日本語入力向きに改良してある訳だ

最も売れていた専用機の富士通「OASYS」には、日本語入力に特化した特殊なキーボード(親指シフト)もあって、これが非常に使い勝手が良いので熱烈なファンが多かった

現在のPCワープロソフトでも使える親指シフトのキーボードは、探せば今でも手に入るはず

 

▲富士通「OASYS」の特殊なキーボード「親指シフト

 

高嶋弘之さんはカシオの製品をお使いのようだが、他社製専用機やPCワープロとの文書互換性が乏しく(まったく読み込めなかったり、文書フォーマットが崩れたりする)、その辺が専用機の弱点だった

一つの会社内で複数メーカーの専用機が混在すると、経理部で作った文書が営業部で使えなかったりとか、いろいろ不都合が生じた

その後インターネットが普及すると、ネット接続に難のある専用機は廃れたが、とことん使いこなして専用機を「愛機」と呼んでいるような人は、高嶋弘之さんのように今でも愛用している

今となっては修理することも出来ず、代替機を手に入れることも難しいので、たぶん壊れると大変!

みなさん相当なご高齢でいらっしゃるので、ワープロが壊れるか人間が先に壊れるかの時間勝負かもしれない

上の高嶋ちさ子さんのインスタで「原稿は全部他の人が打ち直さなきゃ」というのは、ちょっと信じがたい

今は文書ファイルの互換技術が進んでいるし、最悪でもプリンターから印刷して文字認識すればいいだけだから、本当に手で再入力しているのなら、デジタル化に相当遅れた出版社かもしれない

PCやネットに非常にウトい「超文系人間」が、出版業界には棲息しているのかな?

(^_^;)

 

古い動画をAIでカラー化 海軍記念日

最近、古い動画をAIでカラー化するのが流行っています

上の動画は、昭和18年5月の海軍記念日に、東京都内をマーチングバンドが行進しています

81年前の動画なので多少画質が悪いとはいえ、最近撮った動画のようなリアリティ

白黒とはまるで違って、その場の雰囲気が伝わってきます

東京駅の周囲に高層ビルが皆無ですが、皇居前や靖国神社は今と余り変わらない

現在の秋葉原駅近くの万世橋駅も映っていますね(動画では「神田」と表示)

ここは駅こそ無くなったけど、駅舎はかなり現存しています

敗戦まで2年3か月ですが、人々の姿形にはまだ余裕が感じられます

金管楽器がキラキラ輝いていて、華やかさもある

このあと映っている人たちの多くが、地獄を見たり、亡くなったりした訳です

((((;゚д゚))))

 

今日はネコの日

▲三島由紀夫

今日2月22日は「ネコの日」です(にゃんにゃんにゃん)

作家の三島由紀夫ネコ好きだったが、奥さんがネコ嫌いだった

それで結婚したあとは、おおっぴらに猫を飼うことはなかったそうですが、近くに住む両親にチルという猫を預ける形で隠れて飼っていた

夜な夜な訪ねてくるチルのために、机の中に煮干しを入れておいた

一般に、芸術家にはネコ好きが多く、政治家にはイヌ好きが多い

何となく分かるような気がします

反知性主義の三島由紀夫、

「己の肉体を使わず得た知識を振りかざすな!」

今じゃ「知識」にすらなっていない、「ネット情報」の洪水です

歴史の年号みたいな、スマホで調べればすぐに分かる一般情報を、わざわざ脳細胞に記憶させるなんてナンセンス、というのが最近の風潮

体験主義で情報に階層を設けるなら

体験に基づく血肉化した知識

一般知識(己の肉体を使わず得た知識)

記憶する価値もない一般情報

ということでしょうか?

三島由紀夫が生きていたら、現在のネット社会をどう見たかな?

(^_^;)

 

 

 

朝の散歩と薩摩藩邸焼き討ち事件

私はいま品川駅の近くに住んでいて、このごろ自宅周辺の朝散歩が習慣化しつつある(犬は飼っていない)

山手線の内側(高輪、芝など)を歩くと、幕末の史跡が多いことに気付く

この辺にはかつて薩摩藩の江戸屋敷がいくつもあって、薩摩藩は倒幕派の最大勢力だったから、ここはまさに幕末騒乱の最前線だった

そんなある日、上のようなパンフレットを見つけ、応募したら当選して、昨夜お話を聴いてきました

講師は歴史好きが高じて、サラリーマンを定年退職後に大学教授になった人

世の中には歴史オタクみたいな人がいて、下手な学者より知識も豊富で、自分の著書も出したりしている

講演会の会場は、田町駅の近くにある伝統文化交流館という区の施設

 

▲周辺はオフィスビルや高層マンション街で、ここだけ異様な空間

ここはかつて芝浦花柳界の見番(けんばん)として建設された、都内に現存する最古級の木造見番建造物

見番とは、置屋、料亭、待合からなる「三業」を取りまとめ、芸者の取次や遊興費の清算をする施設で「協業会館」と呼ばれていた

東京にはかつて高級料亭が並ぶ花街があちこちにあって、その代表が東京六花街と呼ばれた

柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、芳町(現在の人形町)

芝浦にも、それらに次ぐ花街があったようです

館内には舞台のある大広間があって、そこが講演会の会場

ここの最盛期は昭和10年代で、当時この大広間で多くの宴会が開かれ、たくさんの芸者さんたちが舞台の上で踊りを披露したり活躍していたはず

この建物(伝統文化交流館)は、第二次大戦の空襲でも焼けず、バブル時代の地上げでも取り壊されず、奇跡的に生き残った木造建築で、最近になって歴史的価値を感じた区が改修して展示施設にしました

講演会は定員50人で募集していて、100人以上が応募して、たまたま私は当たった

かつての見番の大広間に、歴史好きが50人ほど集まった訳です

さすがに平均年齢は高かったですが、意外に女性が多く(3割くらい)、私が思っていたよりも歴史ファンに女性は多いんだなと感じました

ここは女性(芸者さん)の職場だったから、近代女性史の研究家とかが来ていたのかもしれませんし、講師が自分の知り合いを呼んだ可能性もありますけどね

 

▲幕末の三田・田町付近(上が北になるように回転させた)

明治になって海に土台(築堤)を築いて鉄道線路を作ったが

駅(田町駅)だけは、薩摩藩の蔵屋敷跡の上に作ったんですね

蔵屋敷の凹みは船着き場かな?

▼現在の三田・田町付近、主な道路は昔のままですね

 

この日のテーマ「薩摩藩邸焼き討ち事件」というのは、幕末の慶応3年12月25日(旧暦)に三田の薩摩藩邸(三田屋敷)で起きた事件で、場所は現在のNEC本社あたり

まさにそこから歩いて10分くらいの場所で、昨夜の講演会があった訳です

薩摩藩は超巨大な藩だったので、これ以外にも広大な高輪屋敷、白金と渋谷に下屋敷、さらに芝浦の海岸に蔵屋敷など、江戸市中にいくつもの藩邸(大名屋敷)を持っていた

高輪屋敷の跡が現在の高輪プリンスホテルで、蔵屋敷跡は現在の田町駅

この蔵屋敷で勝海舟と西郷隆盛が江戸無血開城の談判をしており、現在の田町駅にはそのレリーフが飾られている

当時の日本にはクリスマスを祝う習慣はまだ無かったから、12月25日は単なる年末

焼き討ち事件の当日(旧暦12/25)は新暦1月19日に当たり、この年の秋に改元されて明治元年になっている

だから、まさに明治になる直前(数か月前)に勃発した事件

「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、出来たばかりの明治新政府と260年続いた旧徳川幕府側勢力が戦った戦争(戊辰戦争)のきっかけになった事件とされています

講師の町田さんという人は、

これを「事件」と呼ぶのはケシカラン!

戦争」と呼ぶべき大事件なんだ!

と力説しており、将来の中学校や高校の歴史の教科書には「薩摩藩邸焼き討ち事件」ではなく「三田品川戦争」と記載されるべきだと主張していました

一般に専門家は、自分の専門領域が世間から過小評価されていると思いがちなので、その気持ちは分かる

まあこれは「戦争」という言葉の定義次第なので、事件でも戦争でも私にはどうでもよかったんですが、単なる小競り合いと呼ぶには少々規模の大きな争乱で、時間はわずか1日ですが何十人も戦死しているのは事実だったようです

三田屋敷にこもって江戸市中で乱暴狼藉をしている浪士(徳川方から見たらテロリスト)約200人を引き渡せという交渉が朝7時から3時間も続いたが決裂

戦闘は交渉決裂直後の朝10時ころから始まって午後4時に終わり、三田屋敷は翌朝まで燃え続けた

一番上の講演会チラシにある錦絵が、そのときの三田屋敷の門前を描いており、すでに炎と煙が出ている

このとき薩摩方の交渉役だった三田屋敷の責任者は、交渉決裂直後に槍で突き刺されて即死しています

三田屋敷を取り囲んでいた旧幕府軍(主力は庄内藩)は約1000人で戦闘準備を整えており、包囲する側とされる側には圧倒的な戦力差があった

薩摩藩邸にこもっていた浪士(徳川方から見たらテロリスト)の多くが殺されたり捕まったりしたが、一部の残党が品川方面に逃げ出した

「窮鼠猫をかむ」にならないよう、包囲する側が包囲の一部をゆるめていたので、そこから逃げた

品川沖に薩摩藩の船が停泊していたので、それに乗って上方(関西)方面へ逃げようという考えで、品川へ向かった

当時、江戸から上方まで歩いて15日だが、船なら風に乗れば2日で、鉄道も自動車も無い時代に最も速い移動手段は船だった

この逃げる薩摩船の近くに幕府の軍艦がいて、品川沖で大砲を撃ち合いながら海戦をしており、講師の町田さんは「事件ではなく戦争」の根拠の一つとしています

薩摩船は激しく被弾して残党は「もうこれまで」と覚悟したが、何とか沈没を免れ、品川沖から脱出しました

三田から品川まで逃げるときに

追っ手を防ぐため、途中の民家に放火しながら逃げた

ので、三田から品川にかけて民家の多くが燃えて焼け野原のようになったそうです(これも「事件ではなく戦争」の根拠の一つ)

官軍と彰義隊が上野の山で戦った有名な「上野戦争」は、同じく1日(朝7時~午後5時)で戦死者300人ですから、これを戦争と呼ぶなら薩摩藩邸焼き討ち事件を「三田品川戦争」と呼んでもいいような気もします

ちなみに戊辰戦争全体では、8000人以上が戦死しています

さらに明治10年の西南戦争では、13000人以上が戦死

この幕末明治期の2つの内戦で、2万人以上が亡くなっている

同時期に起きた米国の内戦(南北戦争)では数十万人が戦死していますから、

戊辰戦争や西南戦争は、内戦として国際比較すると、かなり戦死者数が少ない

ことになります(むしろ米国の南北戦争が多すぎると言うべきか)

これはおそらく産業革命の浸透度の違いで、南北戦争当時の米国では産業革命による近代兵器が戦場に十分に行き渡っていたのに対して、同時期の日本の戊辰戦争や西南戦争には近代兵器がそれよりはるかに少なかった

日本刀で戦っている人も多かったが、日本刀は実用性が低くて戦国時代ですら余り使われず、戦国武器の主力は槍(やり)、弓矢、鉄砲、投石だったから、260年の天下太平による平和ボケかもしれない

すでに日本刀は骨董品や工芸作品(芸術品)として床の間の飾りになっていたが、それを引っ張り出して戦争をしていた

産業革命による科学技術の進歩で、近代兵器の人間に対する殺傷能力が飛躍的に高まった

それ対して、人間の肉体の持つ根源的な生命維持能力はほとんど何も変わらない訳だから、人間は近代兵器で簡単に殺されてしまう(現在のウクライナやガザと同じ)

その後の世界大戦では、米国南北戦争の100倍、数千万人が死んでいます

次の世界大戦(それは今年中かもしれない)で全面核戦争になれば、数億人~数十億人が死に、人類は絶滅に瀕します

最後の将軍となった徳川慶喜は、焼き討ち事件が起きる直前(約2か月前)に大政奉還をしました

そして天皇を中心とする新国家を作り、それを運営する合議体(新政府の最高意思決定機関)の主要メンバーに徳川慶喜も加わる気運が高まっていました

これが徳川慶喜の狙いで、「大政」という名を捨てて「合議体のリーダーシップ」という実(実権)をとる戦略

幕末時点でも、徳川家の領地は全国の約3割あったから、十分にリーダーシップがとれると踏んでいた

それが、この事件がきっかけで戊辰戦争が起き、旧徳川方は天皇に刃向かう「賊軍」となって転落し、明治新政府の主要メンバーから旧徳川勢力はほぼ一掃された訳です

これはまさに、薩摩の大久保利通や西郷隆盛の狙っていた路線

薩摩藩邸焼き討ち事件の発生を知った西郷が思わずほくそ笑んだとか、すべてを背後で仕組んだのが西郷だとする説が定説のように流布していますが、これはやや怪しい

そもそもこの後に続く戊辰戦争で官軍(薩長方は勝ったから官軍になった)が勝つ保証は何もなく、当時の軍事力では旧徳川方が圧倒的に優勢だった

大久保や西郷も、この時点で徳川方に武力で勝てるとは思っていなかった

もし旧徳川方が勝っていれば、薩摩や長州が賊軍になっていた

そうなれば、新政府で最大の影響力を持つのは徳川慶喜だったでしょうから、明治以降の日本現代史はかなり様相が違っていたはず

もし「すべてを背後で仕組んだ者」がいたとしたら、それは薩摩藩の西郷ではなく、土佐藩の板垣退助だったと思われます

板垣退助は明治になって自由民権運動を推進し、

「板垣死すとも自由は死せず」

の名言でも有名ですから、何となく平和主義者のようなイメージがありますが、幕末の板垣退助はテロリストと言っても過言ではない超過激派だった

まあ人間というのは、若いころは超過激派でも、歳をとると丸くなるというのはよくあること(板垣が丸くなったかどうか知らんけど)

つい先日、永年全国指名手配されていた元テロリストが半世紀ぶりに逮捕されましたね

しょぼくれた詰まらないジジイになっていて拍子抜けしました

ちなみに板垣退助のお墓は品川駅の近くにあり、先日の朝散歩で偶然に見つけました

徳川慶喜はおフランスびいきの洗練されたお坊ちゃま都会人だったから、

薩長新政府の田舎臭さとドイツびいき

とは違った雰囲気の新政府になっていたと思います

おフランス風の都会的でオシャレな新政府

になったかどうかは知りませんけど、欧州戦争での

おフランス軍の救いようのない弱さ

を考えると、徳川方が負けて良かったのかもしれません

明治になって帝国陸軍が編成されましたが、東京とか関西など都会出身者で編成した軍隊(聯隊)は士気が低く弱いことで有名で、強いのは九州とか東北だった

便利な生活に慣れた都会人は、戦争には向いてないんですね

戊辰戦争でも主力となって戦ったのは、官軍が九州勢、旧幕府軍が東北勢でした

今や全国的に便利な都会生活に慣れた現代日本人は大丈夫かな?

兵器の性能と品質(信頼性)、それに兵器操作能力が重要な現代戦では、士気の重要性は低下しているそうですから、それに期待したいと思っています

徳川慶喜は非常に頭の良い男だったようで、政治の駆け引きや外交交渉は上手にこなすんですけど、とにかく戦争は下手だった!

戦争が下手なら、戦争が上手な部下に任せればいいんですけど、頭がいい人というのは他人任せにできず、何でも自分がやろうとしがち

個人としては優秀だけど権限委譲の出来ない上司(つまり管理者としては問題あり)という人は、今でもよくいますよね

とにかく、戦争というのは頭の良さだけではダメで、勇気(度胸)が必要みたいです

ボンボン育ちの慶喜にはそれが欠けていて、大久保利通や西郷隆盛にはそれがあった!

徳川慶喜は、明治以降は賊軍としての汚名を着せられ、ひっそりと社会の片隅で趣味の世界に生き、大正2年(1913年)に76歳で亡くなっています

大久保や西郷は、その後の暗殺や戦死で40歳代で亡くなっており、それよりずっと長生きしました

徳川慶喜はケタ外れの趣味人で、銃猟・鷹狩り・囲碁・将棋・投網・鵜飼 ・謡(うたい)・能・小鼓・カメラ・洋画 ・刺繍・ウナギ釣り・湯治 ・花見・釣り・書道・弓・ビリヤードなどに親しんだ

さらに子づくりにも励んで、21人の子どもをつくり、宗家分家が栄えている

徳川宗家の現当主、徳川家広氏は19代目(慶喜は15代目将軍)

広い家にお住まいなのかしら?

(2LDKとかにお住まいなら超ウケるんですけど)

評論家や翻訳家をしていて、そこそこ有名人

昨年秋の藩校サミットにも登場してました

この人、何となく徳川家康の肖像画に似てます

初代と19代目だからかなり離れてますが、血はつながってるので不思議ではない(途中の15代目の慶喜には似てないけど)

法事が年に20〜30回もあるそうで、名家の跡取りというのも大変のようです

徳川家康の法事とか、いまでもやってるのかな?

(^_^;)

 

▲徳川家康

 

▲田町駅の近くにある伝統文化交流館

2階の大広間に明かりが灯っていて、そこが講演会の会場

昔はここで、芸者をあげてどんちゃん騒ぎ?

 

ヤマザキ春のパン祭りが、危機なんよ~♪

中東イエメンにフーシ派という、イスラム過激派の武装集団がいる

物流の大動脈「紅海」で大暴れして、貨物船がスエズ運河が通れなくなり、世界の海運物流に大打撃

スエズ運河を経由できないと、アフリカ大陸を回る喜望峰ルートになるので、物流に要する時間やコストがはね上がる

コンテナ運賃は、前月比3倍に跳ね上がっている

神田祭り祇園祭りと並ぶ日本三大祭りの一つ

ヤマザキ春のパン祭り

がもうすぐ始まるのだが、これに大きな影響が出ている

山崎パンに付いている応募シールを集めて送ると、景品の白いお皿がもらえるキャンペーン

フランス製のお皿を積んだ貨物船が、スエズ運河を通れずに入荷が遅れている

ヤマザキ春のパン祭りのお皿が届かないと、日本の春の訪れには大打撃だ!

((((;゚д゚))))

 

 

映画「残菊物語」 歌舞伎界のボンボンの転落悲恋ストーリー

溝口健二監督作品「残菊物語」、1939年(昭和14年)公開

古い映画なので画質音質は劣悪だが、思わず引き込まれる

歌舞伎界名門のボンボン、二代目尾上菊之助(花柳章太郎)と、それを支える健気な恋女房(森赫子)という、身分違いの恋を描くロミジュリ物語

歌舞伎界は今でも家柄がものを言うほど超保守的だが、映画の時代背景は封建主義ガチガチ、親の許さぬ恋愛など犯罪と同列に見られていたころで

「親がいけねぇって言ったら、いけねぇんだ!」

という江戸っ子風のセリフに全てが集約されている

それでも反対されればされるほど、恋の炎は燃え上がる

親(先代)に楯突いて東京の歌舞伎界から追放されたボンボンは、関西歌舞伎、さらにドサ回りの旅芸人一座に加わり、恋女房と一緒に泊まる今晩の宿にも困るほど経済的に窮迫する

大部屋に雑魚寝(ざこね)という超安宿に泊まり、一晩1円80銭で貸し布団を借りる場面は究極のリアリズム

世間知らずの金持ちのボンボン(若旦那)が、芸者や身分の低い女にホレて親に勘当され、浮き世の冷や水を浴びて苦労するという話は、昔から貧しい庶民に非常に好まれた

江戸時代の落語などにも似たような話が多い

本人のボンボン(若旦那)には、生まれて初めて味わう貧しい暮らしが貴重な人生経験になり、歌舞伎役者だからまさに「芸の肥やし」になりそう

物語の時代背景は、明治時代半ばくらいだろうか?

すでに鉄道や電灯もあるのだが、庶民の暮らしや風俗は、今から見たら江戸時代そのものといった感じで、私の民俗興味を大いに満たしてくれる

イギリスの鉄道みたいなコンパートメント型の列車が、駅(おそらく当時の新橋駅?)を発車する場面や、歌舞伎の劇場(芝居小屋)の内部構造が、今とは別世界のようで非常に面白い

当時の鉄道とか芝居小屋は、比較的裕福な人たちの世界だと思うが、その周囲にいる庶民の暮らしは非常に貧しく、日常生活では電灯もなく石油ランプを使っている

貧しい美女が玉の輿(たまのこし)などで社会階層を急浮上する話(「マイ・フェア・レディ」など)と、金持ちのボンボン男が社会階層を急転落する話は、どちらも庶民ウケする鉄板のストーリーのようです

上の動画はYoutubeにあったんだけど、もう著作権が切れているのか、全編無料で観れます

映画の中のお座敷で二人の芸者が、転落する前のボンボン(若旦那)の取り合い口論をする場面があります

そこで「柳橋」(やなぎばし)という地名が出る

一人の芸者が、着物の端を少しめくって二の腕を見せるのですが、この所作にも深い意味があります

東京にはかつて高級料亭が並ぶ花街があちこちにあって、その代表が

東京六花街:柳橋、新橋、赤坂、神楽坂、浅草、芳町(現在の人形町)

今でも柳橋以外には、それらしき雰囲気が少し残っていますね

今なら、銀座のクラブ街、六本木や新宿のキャバクラ街でしょうか

東京六花街の最高峰が「柳新二橋」と呼ばれていた柳橋と新橋で、しかも柳橋の芸者の方が格が上だったそうです

その柳橋の花街は衰退を続けて、最後の高級料亭が今から20年くらい前に廃業、風と共に消えていった花街文化

今では東京の下町によくある、ごく普通の静かな街並みになっています

人間と同様に街にも浮き沈みがあって、何やら栄枯盛衰の悲哀を感じます

(^_^;)