文学

断腸亭日乗の年齢別ページ数

先日、もう何回目か忘れましたが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」の全体を通しで読みました

日記の記述が充実していて読み応えのある年と、そうではないサラっと簡潔な年がありました

それで、荷風の年齢別の日記ページ数をエクセルで集計してグラフ化したのが上の図です

横軸の青い▲の数字が荷風の満年齢、赤い▲は偏奇館炎上で、荷風が書斎と蔵書を失った年(終戦の年)、縦軸がページ数です

40歳台半ば~60歳台半ばにピークが来ています

作家の主要な活動である小説の執筆には、ある程度の人生経験が必要なので、作家の活動(執筆)のピークは人生の後半に訪れることが多く、小説と日記の違いはありますが、上のグラフ(日記)もほぼ一致しています

音楽や美術のような純粋芸術、あるいは文学でも芥川龍之介のような天才肌の作家ですと、もっと若いころに活動のピークが来るのかもしれません

赤い▲の終戦の年(1945年)を過ぎるとガクっと落ちているのは、やはり偏奇館炎上で書斎と蔵書を喪失したショックと、間借り生活による執筆環境の悪化かと思われます

とにかく、雨が降ってもヤリが降っても、空から爆弾が落ちてきても、40年間1日も日記を休まなかった

もちろん、数日分を後からまとめて書いたりは、していたんじゃないかなぁとは思いますけど

そして荷風はそのまま老化を迎え、71歳以降は、「×月×日、晴、正午浅草」のような非常に簡素な記述が続きます

荷風が70歳のころ(1950年前後)、男性の平均寿命が50歳台後半でしたから、当時の70歳というのは現在の90歳くらいの「長生き感」だったのではないかと思われます

サザエさんの父(磯野波平)は54歳という想定で、昭和の途中までは、40歳を過ぎたら初老、50歳を過ぎたら完全に老人でした

このころ会社の定年は50~55歳でしたが、多くの人にとって定年後の人生は、現在ほど長いものではなかったようです

わずか半世紀ほどの違いですが、日本の平均寿命の伸びは驚異的です

最後の亡くなった年(1959年)の記述が少ないのは、亡くなったのが4月末で、日数が半年分以下しかない影響です

50歳から3年間と63歳の1年間が落ちていますが、これは理由がよく分からず、今後の関心テーマです

永井荷風の偏奇館へ

断腸亭日乗を読む(2)

▲浅草オペラ館の楽屋で踊り子に囲まれる

荷風は浅草の侘びて貧しげな雰囲気を好んだ

前回(6/2)、昭和3年まで読み、残り荷風が亡くなる昭和34年まで(30年分)を、今月(6月)いっぱいかけて読むつもりでしたが、早くも読み終えました

この期間は、昭和大恐慌から戦争、そして戦後の混乱という大事件が続き、まるで大河ドラマを観るようでした

荷風は頭痛腹痛など病気がちで医者通いが続き、昭和9年、医者からホルモン注射(ビタミン注射のようなもの?)を勧められてこれを受け始め、にわかに元気を回復します

日乗を読んでいると、独身の荷風の食生活は、ほとんど毎日外食

好き嫌いが激しい荷風ですから、栄養が相当に偏っていたのだろうと思われます

医者からも野菜をもっと食べるように言われるのですが、そんなアドバイスくらいで好き嫌いが直る訳もなく、そこに受けたホルモン注射ですから、即座に効いたのかもしれません

▲当時の浅草 手前左がオペラ館 クリックで拡大

元気になると、以前からの銀座浅草通いが再び頻繁になり、さらに荷風の作品を上演していた浅草オペラ館の楽屋に入り浸るようになります

荷風はオペラ館の館主から多少迷惑がられても、メゲずに毎日のように楽屋に現れます

ただのおっさんではなく、一応は芝居(オペラ)の台本の原作者ですから、さすがに館主も面と向かって「帰れ」とは言いにくい

芝居を原作した作家先生が毎日のようにやって来て、芝居がハネた後は食事をごちそうしてくれる訳ですから、踊り子たちには大モテ

若い女の子がダイスキな荷風は、ここを「天国のようだ!」と言っています

踊り子たちに囲まれてウレシそうにしている荷風の写真、それが有名作家のゴシップネタとして新聞や雑誌にたびたび載ったので、世間に「荷風=変人」という評判が染み渡ります

さらにこのころ散歩で下町の私娼窟「玉の井」(たまのい、下の地図の右上)を偶然に訪れ、そこの娼家の侘びた雰囲気にホレ込み、ここにも毎日のように通い始めます

このときの玉の井での経験が、荷風の代表小説「墨東奇譚」(ぼくとうきだん)になります

その後「墨東奇譚」は2回映画化され、私はその2回目の映画で永井荷風という作家の存在を知り、のめりこむきっかけになりました

荷風はこのころを、「わが最も幸福な時期」としています

▲私娼窟「玉の井」

映画「墨東奇譚」 右上は主演女優の墨田ユキ

やがて世界大恐慌と戦争の暗い影が、荷風だけでなく日本人全体の生活を追い詰めていきます

米軍の空襲(無差別爆撃)による直接的かつ物理的な破壊は昭和18~20年ですが、その前10年間くらい、日本の軍部独裁政権が国民生活の隅々まで統制圧迫の網をかけます

荷風はそれに憤り、米軍よりも日本軍人政府による被害の方が大きいと日記に記します

実際この期間の統制圧迫は、まさに重箱の隅をつつくように国民生活の細々した日常生活に及び、真綿で首を絞められるように国民は疲弊窮迫していきます

▲当時の「ゼイタクは敵だ」などの看板

日本人お得意の集団主義の悪い面が出て、「国家総動員」「ゼイタクは敵だ」などの勇ましいかけ声と共に、個人生活の自由や幸福を破壊することそのものが隠れた目的になっていきます

この期間、日ごろ成功者や幸福そうな人への嫉妬心を心に秘めていた連中が、ここぞとばかりに「正義の人」となって、政府のお墨付きをいいことに、弱い者イジメで憂さ晴らしをしていたようです

荷風も日記の中で、「日本人は世界で最も嫉妬心の強い民族だ」と糾弾しています

個人生活の重箱の隅をつつくような統制圧迫の実態は、余りにも細かすぎてここに要約など出来ず、ご興味があれば直接「断腸亭日乗」をお読みいただくしかないと思います

この期間の「断腸亭日乗」における日常生活困窮の詳細な描写は、近現代史の研究者からも貴重な史料として高く評価されています

やがて浅草オペラ館は取り壊しになり、私娼窟「玉の井」一帯は空襲で焼け野原になり、荷風の「わが最も幸福な時期」は終焉を迎えます

荷風の自宅「偏奇館」も、昭和20年3月の東京大空襲で炎上焼失し、荷風は自宅と蔵書を失います

荷風は知人宅などを転々とし、その先々も含めて合計3回も空襲に遭いますが、奇跡的に3回とも生き長らえます

戦後も知人宅への間借り生活が続くのですが、昭和27年に文化勲章を受章し、芸術院会員にも列せられます

それでも亡くなる直前まで浅草通いをやめなかった荷風

高齢になった荷風の日記は、「×月×日、晴、正午浅草」のような非常に簡素な記述が続き、最後の日記「四月二十九日。祭日。陰。」の翌日に満79歳で没しました

* * * * * * *

なぜ荷風は、その蔵書を疎開(田舎へ避難)させなかったのか?

この理由を知りたくて、今回かなり強い関心をもって日記を読んだのですが、明確な説明はありませんでした

周囲の作家たちが次々にその蔵書を疎開させていることは、荷風の日記からもうかがわれますから、空襲で自宅「偏奇館」が焼ける危険性は荷風も十分に認識していたはずです

ただ、偏奇館が炎上焼失したあと、無一物になってセイセイしたようなことも日記に書いていますから、単なる強がりではなく、本当にわざと疎開させなかった可能性も完全には否定できません

変人と言われた人ですから、その深層心理の底にどのような思惑がうごめいていたかは、余人には知りがたいところです

書斎と蔵書を失った後の荷風は、執筆活動が停滞します

高齢で執筆がメンドウになったのか、書斎と蔵書を失って創作意欲が低下したのか、あるいは終戦前後の社会混乱で出版社の活動が停滞したせいか?

それでも断腸亭日乗だけは、毎日欠かさず書き続けます

断腸亭日乗の年齢別ページ数へ

 

断腸亭日乗を読む(1)

前回、永井荷風の偏奇館について書いたので、引き続き永井荷風について書くことにします

前回もかなり引用しましたが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」(だんちょうていにちじょう)は、モンテーニュ(→)の「エセー」と並ぶ私の座右の書、枕頭の書で、眠りにつく前などに時々読んでいます

荷風は大正6年(1917年)9月16日、荷風数え39歳(満37歳)のときに一念発起して日記を書き始め、数え81歳(満79歳)で亡くなる前日まで40年間以上、日記を書き続けました

モンテーニュは「エセー」を39歳で書き始め、死ぬまで改訂を続けましたから、よく似ています

モンテーニュは田舎の富裕な貴族、荷風はお金持ちのボンボンで、経済的な立場も似ています

荷風は20世紀の激動の時代に、自分と日本社会を冷静な目で見つめて、日記(断腸亭日乗)に書き残しました

モンテーニュも16世紀の宗教戦争という激動の時代に、自分とフランス社会を冷静な目で見つめて、随筆(エセー)に書き残しました

日記というものは普通、他人に見せないものですが、荷風はのちに見られる(読まれる)ことをかなり意識して書いているようです

もともと戦前から超人気作家だった荷風の日記ですから、生前から一部が初期の荷風全集に入ったり、抄録が岩波文庫に入ったりして、今では日本を代表する日記文学となっています

「断腸」とは、荷風が腸に持病を持っていたことに由来します

実際、日記の中には頭痛と並んで腹痛で苦しむ記述が多くあり、常に医者通いをして荷風を悩ませています

そして最期は、胃潰瘍によって引き起こされた吐血による窒息が死因となり、79歳で亡くなります

まあ、50歳を過ぎたら老人と呼ばれていたころの79歳ですから、かなり長生きした方かもしれません

また、園芸用の植物である断腸花が庭に咲いていたことに関係あるような記述も見られます

「断腸亭」とは、荷風が大正9年に麻布の偏奇館に引っ越すまで、両親弟らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現、東京都新宿区余丁町)の家の一隅にあった書斎のことです

つまり荷風は、断腸亭という書斎があった実家から、麻布の偏奇館に引っ越して一人暮らしを始めた訳ですが、日記の名前は引き続き「断腸亭日乗」を用いました

▲書斎(断腸亭?)の荷風

大正6年とあり、断腸亭日乗を書き始めたころ、荷風が満37歳くらいで、慶應義塾大学文学部の教授を辞めた直後です

教授辞職の理由は「三田文学」運営方針の対立ということになってますが、荷風の女遊びに陰口を言う別な教授もいたようで、自由人の荷風は大学組織に居心地の悪さを感じていたのかもしれません

上の写真はおそらく、実家にあった「断腸亭」という書斎かと思われます

イスが多いので、書斎周辺のテーブルかもしれませんね

いかにも「お金持ちのボンボン」といった感じで、37歳の荷風がぼんやり座っています

テーブルの上の書類の置き方を見ても、几帳面な人だなぁという印象

几帳面じゃなきゃ、日記を40年も続けないでしょうけど

この翌年(1918年)、麻布に偏奇館を建てて移り住み、完全に自由な作家生活を始めます

 

* * * * * * *

 

私は最近、昭和史に興味が出て来て、その関連の本をぼちぼち読み始めています

私の自分自身の記憶は、日本が高度成長によって、平和で自由で豊かな社会になってからのものばかりです

高度成長期より前の時代は、正直どんな雰囲気の時代だったのかよく分からないのですが、戦争や貧困や不自由が当たり前の暗い時代だったというイメージです

昭和になる直前に起きた関東大震災、そして世界大恐慌、日本の大陸進出と太平洋戦争、さらに戦後の混乱など、当時の日本人にとっても世界史的なレベルでも大変な時代、激動の時代だったはずです

現代史の本などを読むと、主に政治史として書かれているために、満州事変、二二六事件、真珠湾攻撃などが大きく扱われる訳ですが、その背後で普通の日本人がどのような毎日を過ごしていたのか、当時の世情はどんな事件に注目していたのかなどに私の興味があります

これらについて、私が大好きな作家の松本清張や永井荷風、時には林芙美子など読みながら、昭和の前半という激動の時代を生きた日本人の当時の気分を追体験したいと思っている訳です

この三人の中で、永井荷風はお金持ちのボンボンで、残りの二人とは大きく違っています

現在の日本とは比較にならない大きな貧富の格差があった時代ですから、経済的に社会を上から見た荷風と下から見た二人は、当時の社会の実相を知る上で有益です

政治の実態を知りたければ、右(例えば産経新聞)と左(例えば赤旗)の両方を読むといいなどと言われますが、経済の実態を知りたければ、その右左を上下に変えればいいと考えました

私が荷風に心ひかれるのは、彼がトコトン「好きなように生きた人」だからかもしれません

実際、彼にはそれを可能にする経済力や文学的才能がありました

人がその人生を生きる上で、何を主たる基準にしているかを大ざっぱに分けると

A)為すべきことをして生きる人(立志の人)

B)好きなように生きる人(我欲の人)

C)他人の目を気にして生きる人(世間の人)

などがいると思います

表だってABCのどれで生きたいかと問えば、多くの人がAやBを選ぶと思いますが、実際の生き様を見ていると、Cを主な基準にして生きている人(世間の人)が非常に多いのが日本人の実態ではないかという気がします

これは悪いことばかりではありません

最近増えているインバウンドの外国人観光客が、日本の治安の良さや街の清潔さに感動しているようですが、その背景には日本人のCの生き方が大きく影響しているのではないかと思います

ちなみにAの生き方(立志の人)は、人生に志(こころざし)という大目標を持つという生き方で、吉田松陰のような偉人の生き方がその典型です

イデオロギー的な生き方なので、大変な行動力を発揮して社会を変革したりもしますが、時には「正義の人」となって自らの正しさを過信して判断力を失い、テロリストのような過激な行動を起こす危険人物になったりもします

これ(立志の人)は、どちらかと言えば発展途上国的な生き方かもしれません

退廃的な生き方(立志の人とは正反対の生き方)は、フランスのような文化が爛熟した先進国でのみ可能だと荷風も言っています

日本も発展途上国だった明治の初めには、福沢諭吉の「学問のすすめ」「西国立志編」などに刺激された「立志の人」が世間にウジャウジャいて、「末は博士か大臣か」などと立身出世を目指していた訳です

やがて日本が富国強兵で日露戦争にも勝ち、当時の先進国の仲間入りをし、世の中にも余裕が出来てきたころ、立志の人が減り、大正ロマンの退廃的な花が咲いて文化爛熟の時期を迎えた訳です

しかしこの花も、世界大恐慌という大波にさらわれて、激動の昭和へ突入していきます

その大波の下で当時の日本人は、毎日をどのように生きていたか、それを断腸亭日乗は生き生きと記録しています

その土地によって、立志の人が多い場所というのがあります

日本で言えば茨城県の水戸やその周辺がそうで、徳川光圀(黄門さま)が創始した水戸学というイデオロギーで過激な行動(桜田門外の変など)を起こしがちで、最後は藩内紛争が泥沼化した末に天狗党の乱などを起こして悲惨な最期を迎えており、立志の人(正義の人)の危険性を実証しています

海外から見れば日本という国は、やや水戸のような気風があり、真珠湾攻撃のような過激な行動を起こしがちと見られていたような気もします

戦後は大人しくして諸外国から信用を得ており、喜ばしい限りです

私は明治の人間ではありませんし、余り志(こころざし)とか持つタイプではないので、文化が爛熟した日本という先進文明国に生まれたことを幸いに、なるべく好きなように生きたいと思っているのですが、平凡な人間なので他人の目も気になってしまうというのが現実です

それで、他人の目など気にせず好きなように生きたお手本として、永井荷風に注目している訳です

実際、私は永井荷風を尊敬もしていませんし、立派な人物だとも思っていません(もちろん軽蔑もしていませんが)

私は彼のようなお金持ちのボンボンでもないし、彼のような文学的才能も無く、彼のような変態(異常性欲)でもありませんが、ただ彼のライフスタイル、「好きなように生きる」というスタンスに心ひかれているだけです

「好きなように生きる」というのは、言うのは簡単ですが、本気で実行しようとすると世間との軋轢(あつれき)など想定外の困難に直面して周囲から変人扱いされ、よほど強い意志がないと継続が難しい生き方のようです

断腸亭日乗を読んでいると、好きなように生きようとする荷風が、いろいろな困難(世間との軋轢など)に直面して、それにどう対処したかが具体的に描かれていて、それが非常に面白いのです

これはあくまでも一般論ですが、他人観察が好きな多数派C(世間の人)が少数派B(我欲の人)を見ると、社会適応していない「子ども」のように見えることでしょう

少数派B(我欲の人)にとって、社会適応すること(多数派に合わせること)の優先順位が低いのですから、そうなるのは当然と言えます

世の中には、好きなように生きたいのではなく、単に愚鈍なために社会適応できない人もいますから、これと混同視されることは避けられないでしょう

逆に少数派B(我欲の人)が多数派C(世間の人)をたまに観察することがあれば、他人に合わせるだけの思考停止した「馬鹿」のように見えることもあろうかと思われます

そしてBもCも、A(立志の人)を見ると「偉人」あるいは「狂人」に見え、逆にAは自己の志(こころざし)に目が集中していますから、同じようなAタイプ(同志や敵)は別として、その他おおぜい(BやC)に対しては余り関心が無いかもしれません

以上は分かり易く単純化したものであって、現実の人間はこれらタイプの組合せで、しかもABC以外の要素DEF・・・も含むことでしょうから複雑です

人間タイプ分けはこれくらいにして、荷風は有名な「歩くの大好き」人間なので、東京を毎日のようにあちこち歩き回り、その描写も断腸亭日乗には豊富です

当時の東京(あるいはまだ残存していた江戸)の時代性が感じられて非常に面白い

文豪と言われた人ですから、その文章は風景描写の妙を極めており、いま東京を歩くときにその文章を思い出すことで、散歩の楽しみが倍加します

そんな訳で、これで何回目か、今また断腸亭日乗を最初から読み始めています

断腸亭日乗は荷風全集全30巻の内の6巻(21~26巻)を占めており、荷風全集は1巻あたり500~600ページくらいで、全3000ページ以上ですから読み応えがあります

日記ではありますが、分量で言えば荷風最大の文学作品とも言えます

岩波文庫から要約版(摘録)上下2巻(計900ページ程度)が出ていて、私も最初(全集を買う前)はこれを読みました

今回は、大正6年の書き始めから大正末年まで、やや読み飛ばしながら進み、昨日は昭和2年を読みました

昭和元年は大正天皇の崩御が年末だったので1週間しかなく、昭和史は実質、昭和2年から始まります

そして今日は、昭和3年をいま(6/2)読み終えたところ

このとき荷風は数え50歳(満48歳)で、今風に考えればまだ若いのですが、頭痛、腹痛、歯痛など常に健康上の危機に遭遇して、毎日のように医者通い

このころの日本人の平均寿命は50歳くらいだったはずですから、周囲からも老人扱いされがち

かなり参っていて、日記の中で「せめてあと1年生きたい」などと弱気なことを言っています

それでも医者通いのあと、銀座のカフェー(現在の高級クラブ)「タイガー」には毎晩のように通い、20歳少々の愛人(おめかけさん)であるお歌さんのいる妾宅(しょうたく)「壺中庵(こちゅうあん)」にはしょっちゅういりびたる毎日を過ごしています

荷風の著作が「円本」という当時のベストセラー出版で爆発的に売れ、そのおかげで相当な金額の印税を荷風が得たと世に報ぜられるや、それを目当てに共産主義者を自称する乞食が毎日のように自宅(偏奇館)にやってきて、金を貸せとか寄付をしろなどと暴力的なユスリタカリをする

それがイヤで自宅(偏奇館)を留守がちにして、妾宅「壺中庵」に入り浸り、50歳でもうすぐ死ぬようなことを言いながら退廃的に暮らしています

実際はこのあと元気を回復し、戦争や空襲にも生き延び、79歳まで生きましたけどね

これから毎日1年分ずつくらい、今月中じっくり楽しもうと思っています

▲荷風とお歌さん(おめかけさん関根歌)

上の写真は、このころお歌さんと撮った写真です

たぶんどこかの写真館で撮ったのか、二人ともしっかりおめかししていますね

お歌さんは20歳くらいまで「寿々竜」という名で麹町の芸者をしていたので、着物もキリッとしていて粋な感じです

荷風はお歌さんを非常に気に入っていて、日記の中で激賞しています

人の好き嫌いが激しく、日記の中で他人への罵詈雑言を並べている荷風にしては非常に珍しいことで、28歳も歳下のお歌さんを、恋人でしかも娘のように思っていたのかもしれません

実はお歌さんは、まだ20歳を過ぎたばかりですが、荷風が思っているほど純朴な人ではなく、なかなか商才もあり(このあと荷風に出資してもらって待合茶屋の経営を始めている)、荷風を手のひらに乗せて上手に利用しているようなしたたかな側面もあります

恋の結晶作用で盲目になった荷風は気がつかなかったのか、あるいは気がつかないフリをしていたのか?

上の写真を見ても、なかなか理知的な美人で、今ならキャリアウーマンや女性起業家などしても似合いそうな感じ

下の写真もお歌さんらしいのですが、ヘアスタイルが違うとまるで別人のようです

断腸亭日乗に登場するお歌さんは、下の写真のイメージです

妾宅「壺中庵」(お歌の家、芝区西久保八幡町、現在の港区虎ノ門五丁目)か、または荷風が出資しお歌さんが経営した待合茶屋(千代田区三番町、麹町の近く)での写真かと思われます

荷風はこの部屋のこたつにもぐって寝転び、お歌さんに肩をもんでもらったりしながら、日がな一日、のんびり退廃的に過ごしていたのかもしれません

荷風とお歌さんは、やがておめかけさん関係を解消しますが、その後も友人としての関係は続き、荷風が亡くなる直前までお歌さんは時々荷風を訪ねて旧交を温めています

荷風には少なくとも16人の愛人(おめかけさん)がいたと本人が日記に書いていますが、お歌さんはその中で最も長く関係が続きました

お歌さんには「日蔭の女の五年間」という、荷風のおめかけさん時代の回想記があり、

「夜の時間を、先生は昔ばなしを私にきかせてくださるのでした。アメリカやフランスに行かれた時のこと、交渉のあった女のひとのおのろけ話で夜をふかしました。また芸者や女給さんたちの色っぽい噂話がたいへんお好きでした」

と書いています

(^_^;)~♪

 

▼荷風のお歌さんに対する評価

「断腸亭日乗」昭和3年2月  「荷風全集」第22巻

断腸亭日乗を読む(2)へ

永井荷風の偏奇館

▲偏奇館

今から104年前の大正9年(1920年)5月23日、作家の永井荷風は麻布市兵衛町(現在の六本木一丁目)の新居に移り住みました

有名な「偏奇館」(へんきかん、またはぺんきかん)という一戸建て、当時としては珍しいペンキ白塗り洋風建築なので「ペンキ館」なのだと、荷風はその日記「断腸亭日乗」の中で述べています

▲「断腸亭日乗」大正9年5月  「荷風全集」第20巻

▲偏奇館の前 永井荷風

▲偏奇館の窓 永井荷風

▲偏奇館の内部

彼の代表作「墨東奇譚」をベースに、「断腸亭日乗」から肉付けした映画「墨東奇譚」の冒頭、偏奇館に荷風の母親が訪ねてくる場面があり、その母親は

変人の住まいだから、偏奇館(変奇館)かと思った」

と語り、荷風は

「当たってますねぇ」

と応じます

▲映画「墨東奇譚」▼

▲永井荷風の父、永井久一郎

永井荷風の父、永井久一郎は、高級官僚から民間大企業(日本郵船)の経営者に転じた人物

政府要人にも知遇が多く、永井家は江戸時代には豪農だった富裕な家系です

永井荷風は、親の財産のおかげで若いころから経済的な苦労をほとんどしていません

同じ作家でも、有名になるまで極貧に苦しんだ林芙美子や松本清張に比べると、その対極にいた人物と言えます

しかも人生の途中からは小説の印税収入にも恵まれ、亡くなったときの巨額な遺産で世間を騒がせました

▲荷風の死を報ずる新聞記事(1959年)

貨幣価値が現在の数十倍の時代の3000万円

荷風の父、永井久一郎は、荷風にビジネスの修行をさせて実業家にしたかったようですが、そんな父の期待を無視して、荷風はどんどん自分の好きな道を歩みます

しかし、自分の母親からも「変人」と呼ばれたほどの人物なので、性欲だけでなく金銭欲にも変人っぷりを遺憾なく発揮し、その吝嗇(りんしょく)ぶりでも有名でした

彼は銀座のカフェー「タイガー」(現在の高級クラブやキャバクラのような存在)が大のお気に入りで、連日足繁く通うのですが、そのカフェーの女給(現在のホステスやキャバ嬢のような存在)に与えるチップもケチっていたようです

映画「墨東奇譚」にもそのような場面が出て来ます

▲銀座5丁目にあったカフェー「タイガー」の夜景

まだ日本語横書きの方向が定まっていない時代

現在の銀座の高級クラブの多くが雑居ビルの一室やワンフロアなのに対して、カフェー「タイガー」は一つのビル全体と言える大きな店で、内装も豪華でした

カフェー「タイガー」は、文藝春秋社や芥川賞直木賞を創った菊池寛など、多くの作家や文化人が常連客として利用し、当時の文壇の社交場のような雰囲気も呈していました

▲カフェーでダンスをする菊池寛

菊池寛はケチな荷風とは違って女給へのチップにも気前が良かったが、残念ながら余りモテず、それを中央公論社に暴露揶揄されて激怒、編集部を襲撃して編集者を殴るという事件を起こしました

北野武によるフライデー編集部襲撃事件(1986年)は、菊池寛のこの事件を意識しての行動だったのではないかと思われます

人の好き嫌いが激しかった荷風ですが、特に菊池寛を非常に嫌っており、「断腸亭日乗」には菊池寛への罵詈雑言が満ちています

「タイガー」の近くには、カフェー「ライオン」もあり、顧客の奪い合い、女給(ホステス)の引き抜きなどで激しく争っており、虎とライオンの戦いは世間の耳目を集めていました

荷風は、そんなカフェー通いをしたり、おめかけさんを囲ったり、

偏奇館時代 1920~1945年、荷風40~65歳

に好き放題の自由な独身生活を楽しみながら、一方では多くの文学作品を生み出し続けます

荷風は

「人生に三楽あり(読書と酒と)」

と語っていますが、荷風文学と荷風の女遊びは切っても切れない関係にあります

偏奇館に移り住む前、31歳から数年間は慶應義塾大学文学部の教授をつとめ、今も続く文芸雑誌「三田文学」は、荷風が初代主幹となって創刊されました

教授時代の荷風は、妾宅(しょうたく、おめかけさんを囲った家)から授業に通ったりする変人教授としても有名で、そのことを隠しもしなかったので他の教授から批判されたりもするのですが、彼の授業は学生からは人気が高く、特に雑談が面白いと言われていました

▲荷風とお歌(おめかけさん)

荷風は生涯に、少なくとも16人の愛人(おめかけさん)を持ったと言われています

ちなみに昭和の途中まで、男が愛人(おめかけさん)を持つことはさほど悪いこととは見なされず、むしろ「男の甲斐性」とも見られていました

「三流の男の正妻よりも、一流の男の妾(めかけ)になりたい」

と公言する女性もいたのです

新しい1万円札の顔になる渋沢栄一も、16人かどうか知りませんが、多くの愛人(おめかけさん)がいたことが知られています

現在の1万円札の顔である福沢諭吉は、「私は妻以外の女性と関係したことは無い」と公言していましたから、福沢から渋沢へ「大きな変化」と言えるかと思います

昭和の途中から現在まで、女権拡張運動の流れの中で、

男性の性欲を罪悪視するような、おかしな風潮

がありましたが、その流れが変わるきっかけになるかもしれません

人間の物欲や所有欲を否定した共産主義社会が崩壊したように、人間の本能に基づく自然な欲求を過度に否定するような社会制度や価値観には無理があり、長持ちしないような気がします

男の性欲が無ければ人類はとっくに滅亡していた訳ですから、男の性欲と女の母性が人類の子孫繁栄を支えるクルマの両輪であると言えます

性犯罪を憎んで性欲を罪悪視するのは、泥棒を憎んで物欲を否定するようなものです

ちなみに、聖人君子のような福沢諭吉ですが、やはり男というものは飲む打つ買うの一つくらいは道楽があるもので、福沢は酒がことのほか大好きで、幼い子どものころから酒には目が無かったと自伝に書いています

▲酒ダイスキ   ▼女ダイスキ

 

昭和20年(1945年)3月10日払暁の東京大空襲で偏奇館が炎上し、荷風はほぼすべての蔵書を失います

当時は空襲(都市への無差別爆撃)が激しくなる時期で、多くの作家や文化人は、その蔵書を地方へ疎開(避難)させていました

荷風も蔵書を疎開することは可能で、それを実行する経済力もあったのに、なぜそれをしなかったのか?

これは私にとって大きな謎で、どこかに理由が判明する記録が残っていないか探索中です

ちなみに、荷風の後輩で親交のあった谷崎潤一郎は、蔵書だけでなく彼自身も早々と関西などへ疎開し(大正12年の関東大震災のあとですから、かなり早い)、空襲を免れています

偏奇館炎上後に各地を転々とした荷風が、勝山(現在の岡山県真庭市)に疎開中の谷崎潤一郎邸を訪れます

まだ戦争中(終戦の数日前)でしたが、文壇デビューで荷風の世話になった恩義のある谷崎は、牛肉のすき焼きと日本酒2升で荷風をもてなします

数日前に近くの広島に原爆が落ちたばかり、多くの国民が餓死寸前で苦しんでいた時でも、あるところにはあったようです

このとき谷崎は、牛肉1貫(約3・75キロ)を200円で買ったそうです(当時の都市銀行の大卒初任給が80円くらい)

現在なら100グラム2万円くらいの牛肉を、75万円分(!)用意したことになります

いくら腹が減っていても、1回の会食に二人で肉3・75キロは食えないでしょうから、残りは後からゆっくり、谷崎が食ったのでしょう(谷崎はグルメで有名)

▼「断腸亭日乗」昭和20年3月  「荷風全集」第25巻

偏奇館のあった場所(現在の六本木一丁目)には、その後の再開発で、現在は高層ビル「泉ガーデンタワー」が建っています

古き良き江戸の街並みや風情を愛し、それが破壊される東京の都市開発を嫌っていた荷風

もし荷風が今生きていて、このビルを見たら何を思うでしょうか?

▲偏奇館跡に建つ泉ガーデンタワー

私もつい最近まで、六本木のすぐ近く(元麻布)に長らく住んでいました

なぜ六本木に住んだのかと問われ、荷風(偏奇館)の影響が無かったと言えば、ウソになりそうな気がします

(^_^;)~♪

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以下、「断腸亭日乗」の終戦前後

苦労しながら谷崎邸にたどり着き、すき焼きをふるまわれる場面があります

荷風もこのころは食糧に苦労していたので、その感激は大きかったはず

すき焼きについて詳しい記述が無いのは、日記の内容が万一外部に漏れたとき、ヤミ肉ヤミ酒を手に入れてくれた谷崎に迷惑がかからないための配慮と思われる

断腸亭日乗へ